掲載日:2023年1月18日
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「1945年-20歳の頃-」 津田 恭子(つだ きょうこ)
私達の娘時代は戦争真っただ中で夢中で過ごしたように思います。
女学校を卒業して中央区にありました和紙(わがみ)の統制会社に勤めました。
場所は日本橋の人形町の交差点の角から2軒目、そこで戦災に遭いました。
仕事場での日常は、とても忙しく残業ばかりでした。
夕方になると隣りの末廣亭(寄席)から、おはやしが聞こえてきました。この時間帯になるとお腹が空いてきて、皆で声を掛け合い、夕食用に持参したお弁当を食べました。お弁当には、フスマの粉を丸めて潰して焼いたモノが多かったです。このようなものでも、みんなで食べる食事は楽しく美味しく感じました。
暗くなると3階以上の階は、窓に黒い幕を下ろすことになっておりました。その幕からそっと外を覗くと『帝都』のサーチライトが左右に揺れ、交差しながら『宮城(きゅうじょう)』の方角の空を照らしていました。
東京大空襲の昭和20年3月10日には、自宅は駒込でしたので、その日の被害はありませんでした。
しかし人形町は大きな被害に遭いました。
数日経ち電車が復旧してから、会社の様子を見に行きました。
大豆を炒って塩水をかけたモノ一握り、水筒、カイロを持たせてもらい、自宅を出ました。自宅のあった駒込から山手線に乗り、御徒町で降り、昭和通りを歩いて行きました。
途中岩本町辺りで、炭化した木の電柱が時折風でポーと燃えたり、黒く焼け焦げた電車がありました。「会社は大丈夫だろうか」と心配しながら歩きました。通りには人は歩いていませんでした。大伝馬町、小伝馬町と歩き、人形町にようやく着きました。
会社のビルは残っていましたが、エレベーターが止まっていたので、5階まで階段を駆け上がりますと男の方が3人いらしていました。「よく来たね。家の方は大丈夫だったか?屋上へ上がってごらん?」と言われ、行ってみると遠くのほうからビルの足元まですべて焼けておりました。
会社のすぐ近くに明治座がありました。行ってみると1階のシャッターが50センチほど開いておりました。覗いてみると中は暗かったのですが、鉄兜が5,6個転がっていました。
次に同じ場所を通ったときには、建物の前に山ができていて土が被せてありました。大勢の方が中で亡くなったのだとわかり、とても辛かったです。
東京大空襲の際、母が「今日は他人(ひと)の身、明日は我が身だから私達も気をつけて過ごそうね。」とそう申しておりました。
その後、4月13,14日に私達のいた豊島区駒込1丁目は丸焼けになりました。
空襲警報が鳴ってすぐ電気を消した時には、すでにB29が飛んで来ていました。ですので急いで横穴式の防空壕へ母と妹と入りました。その防空壕は、4~5人入れるもので、家族で掘ったものです。コンクリートを剥がすのが大変だった事を覚えています。
そのまま防空壕にいたら、焼夷弾が落とされてきっと命がなかったと思います。父に「早く出なきゃ死んじゃうよ」と言われて慌てて飛び出しました。父は長いこと教職に就いておりましたので、空襲の時はいつもはすぐに学校へ行ってしまうのですが、その晩は父が職場の学校へ行く前だったのです。
防空壕を出て、門の所にあったホテイアオイの入った丸い水槽の水をかぶり、小川を飛び越え、崖を上がり、線路づたいにガードの上を田端の方角へ逃げました。父に「足元だけを見て行きなさい」と言われ、線路の下を見ないようにして必死で逃げました。防空頭巾の上に被ってきたはずの座布団は、気付くとありませんでした。
道順は覚えていませんが、父が勤めていた赤羽の青年学校にたどり着きました。他の先生がどこからか持ってきて下さった畳の上で一晩を過ごしました。
次の日、自宅へ戻ってみましたが、家は跡形もありませんでした。残っていたのは、鉄でできた火消し壺、金槌の頭の部分。そして叔父からもらった人形のせとものでできた顔の部分。それは目が溶け落ちた異様な姿で、光景と共に覚えています。
95年以上の人生の中で一番怖かった経験です。
その後しばらく親戚の家を転々とし、中央区の会社にはそこから通いました。
戦争は嫌ですね。
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