掲載日:2023年1月18日
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「戦争くらい悲惨なものはない」 池中 正弘(いけなか まさひろ)
昭和20年5月に、私の家のある月島一丁目は強制疎開させられることになり、両親と兄弟4人の6人家族で、父親の郷里の奈良県に疎開しました。父は村の収入役として迎えられましたし、実家は農家でしたので、23年に元の家に帰って来るまでは、あまり生活には困りませんでした。
疎開以前にも、家業が食品店でしたからヤミの食糧ならある程度の量は手に入りましたので、それほど不自由ではありませんでした。
当時、“公定価格”というのがありましたが、有って無きに等しいものであり、ヤミは公定価格の2倍くらいはしましたから、毎日値段が変わりました。それでも、田舎から担ぎ屋が来るので、玉子等も食べていました。
米は配給だけでは足りませんので、埼玉や千葉に買い出しに行きました。当時の警察は「経済課」というのがあって、ヤミの食糧を取り締まっていました。そのため、3回に1回くらいは駅でつかまり、買ってきたヤミ米は投げて帰る、という状況でした。捕まるといろいろ面倒なので、投げ出してくるわけです。
しかし、警察も、素人とプロの担ぎ屋は大体区別できるらしく、素人には多少情状酌量してくれることもあったようです。
私の家は比較的恵まれていましたが、新富町辺りでは、国民食堂にいつも行列ができていました。多分1杯10銭だったと思いますが、雑炊を食べるためです。こうした周囲への気がねもあって、私の家でもすいとん等は食べました。
衣料品も切符で間に合っていました。当時は、つぎを当てた服は当たり前でしたから、持っているものでなんとかなったのでしょう。
運動靴なども、親が陰で苦労していたのかも知れませんが、配給で足りました。
タバコも配給でしたが、父が吸いませんでしたので、人にあげていました。
こうした配給は、すべて隣組を通して行われますから、近所付き合いは今よりもずっと親密でした。隣組は20軒くらいありましたが、防空演習等もしていましたし、私も出たことがあります。配給だけなので店は暇ですから、防空演習が家業に影響するというようなことはありませんでした。
昭和20年3月9日夜の空襲では、下町一帯が焼野原という惨状でしたが、本所に親戚があったので、翌日父と探しに行きました。道には黒焦げの死体がゴロゴロ横たわり、母親の下で赤ん坊が死んでいたりして、それはひどいものでした。
親戚は、家は焼失したものの幸い無事でしたが、戦争くらい悲惨なものはありません。戦争に子や孫は絶対やりたくありません。
私は戦争開始前の昭和16年11月27日から17年1月まで、新聞のスクラップをつくったのを持っています。当時はノートを手に入れるのも不自由でした。近所の人が大正時代の新聞をスクラップしているのを見て始めたのです。それに「勝利の記録」と題しています。戦争に負けるなどとは思ってもいなかったわけです。
サイパンの頃から、どうもおかしいと内心思い始めましたが、特高がこわいので誰も口に出しませんでした。
今、日本は自由で、世界一治安もいい国と言われます。平和の大事さをしみじみ感じます。
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