掲載日:2023年1月18日

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「スフの国民服と地下足袋で」 Y・S

私はスフの国民服、地下足袋、防空頭巾という出で立ちで神田須田町の市電の安全地帯に立ち、両親や隣組の方々に万歳で送られて疎開地へ出発しました。昭和19年9月末の朝のことでした。
阪本国民学校では、遠足にでも行くかのように児童たちが最後のお米で作ったおにぎりや、とっておきのお菓子を持って集合していました。
私たち教員は3年生女子と4年生男子、6年生女子のおよそ100名の児童を引率して、疎開先の埼玉県足立郡片柳村(現:大宮市)万年寺に向けて出発しました。片柳村は東京駅から省線で大宮まで行き、そこから8kmぐらい入った農村でした。村の人々の歓迎の中、児童たちは嬉々として行進しました。片柳国民学校の校長先生も迎えてくださいました。
万年寺はとても大きなお寺でした。本堂の前が寝室兼学習室(後に教室も兼ねる)、庫裡が食堂、廊下が職員室という部屋割りで疎開生活が始まりました。
私は6年生女子24名の担任で、当初、授業は1里離れたところにある片柳国民学校で行いました。片柳国民学校では疎開者が増え、教室が足りない状況にもかかわらず、校長先生のご好意で3部屋提供していただきました。そこに机や椅子を並べ、ちゃんとした教室を作ってくださいました。
ご好意に感謝して、そこで授業を行ったのですが、何しろ1里もの道を歩いて登校し、また帰るのですから、田舎の生活に慣れていない東京の子は疲れてしまいます。授業も慰問文と家族への便りで精一杯の状況でした。作文や手紙ばかり書かせたので、私の教え子の字は私の字によく似ています。片柳国民学校での授業は1から2か月で終え、その後はお寺で授業を行うことになりました。お寺では本堂が寝室兼学習室になっていました。仏様がいつも睨んでいらっしゃるようで、そんな中で生活しなければならないためか、小さい児童はいつも怖がっていたようです。
片柳村は苗木の産地としては有名だったようですが、土壌のせいか米や野菜などの産出は豊かではありませんでした。それでもさつま芋などは私たちもよく食べることができましたが、そのさつま芋は今のようにホクホクした黄色ではなく、中が白く、甘味などはほとんどありませんでした。あの頃、地元の人がそのさつま芋を生で食べているのを見て、初めは中が白いので、私は林檎を食べているのかと思いました。
食生活は貧しく、毎日ほとんど雑炊を食べていましたが、炊事は区が募集した独身の若い女性2人の寮母さんと地元から通いでお願いした2人の給食婦さんがしてくれました。お寺ですから炊事場の設備が整っておらず、大きなお釜を2つ作って、そのお釜でさつま芋を蒸したり、もっぱら雑炊を作ったりしました。
その雑炊も全部お米ではありませんでした。当時、お米は大人で1日2合7斥の配給キップ制でしたが、そのキップを児童たちの分も東京から持ってきて、それをまとめて配給所に出して、お米と替えてもらうのですが、それだけではとても足りません。ですから、雑炊にはお米に芋や栗のようなものを混ぜて炊いていました。
片柳村は土壌こそあまり豊かではなかったものの、人情の厚い土地柄でした。自分たちもそれほど満足のいく食生活をしていなかったにもかかわらず、疎開の児童が可哀想だと婦人会の方々がいろいろな物を集めて月に何回か持ってきてくれました。おかげさまで、私自身は近隣への買い出しや、頭を下げて食糧を貰い歩くような経験をせずに済みました。人の気持ちが温かく、今考えてみると、いい所へ疎開したと思うのです。

食糧を提供していただいたお礼にと、村長さんや農家、愛国婦人会の方々をお寺に招待して、よく演芸会をやりました。日本橋の下町気質というのでしょうか、東京の子はわりと芸が達者で、オルガンや木琴、ハーモニカなどで「見よ、見よ、大空に荒鷲が・・・・」と行進曲を演奏し、その途中に斉唱、独唱を入れる。次はぐっと哀調を帯びた「風ふきゃ嵐にならぬよう、雨ふりゃさぞやごくろうさん」といった航空兵の歌が流れます。「疎開の子は、何と歌がうまいのだろう」と愛国婦人会の方々も涙ぐみ、さつま芋の1俵も余計に供出してくれるのでした。
ある時、皇后陛下から疎開児童への慰問品としていただいたカルケットの美味しかったこと。1人1袋で10個も入っていなかったと思いますが、皇后陛下のお歌が書いてあるお菓子でした。児童たちも大変喜んで、舐めるようにして食べたその光景が一生忘れられない思い出として心に残っています。児童たちは親からお菓子を送ってもらってはいけないことになっていましたが、仁丹とか梅于しの丸薬のようなものを送ってもらって、よく舐めていました。これらは薬であってお菓子じゃないという理屈でした。
食器はおのおのが東京から持ってきたものを使用するのですが、子供ながら今日はお皿にしたり、丼にしたり、少しでも多く貰おうと思って工夫していました。どんなに大きな食器を出しても、入れるのはおたまで入れるのですから、どれも同じなのですが・・・。
片柳村は水の便もあまりよくないところでしたので、充分に風呂も入ることもできず、シラミがよくわきました。9月の始業式に土地の子が1組に2人か3人、式中でも防空頭巾をかぶっていました。地元の先生にうかがうと、「頭巾をかぶっているのはシラミのわいた子で、他の児童にうつらないようにかぶっている」といわれびっくりしましたが、冬頃までには、疎開児童全員がシラミを持つようになってしまったのです。

最初はお風呂がなかったため、東京から、全員疎開して空き家になった家の小判型のお風呂を4つくらい寄付してもらって、それに入っていました。何しろ100人もの児童が入るのですから、4つくらいのお風呂では間に合いません。
また、そのお風呂を沸かす燃料はないし、水を汲むのにも骨が折れるといった状態で、毎日入ることはできません。次第に不潔になっていくのですからシラミもわくはずです。洗濯だってまめにはできませんでした。配給されたのは、泡も立たないし、汚れも落ちもしない、まるで磨き砂を固めたような石鹸でした。
児童たちは慢性的な栄養失調だったと思います。でも、病気らしい病気はしませんでした。生きていくための最低限のカロリーは何とか確保されていたようです。湿疹や潰瘍が出やすく、それがなかなか治りにくいというようなことはありました。しかし、保健の先生がおられたので、割合、手当が行き届いていましたから、大事には至りませんでした。
児童の中に日本橋の大きな床屋さんの子がいて、時々そのお父さんが、半月に1度か月に1度の割合でサービスにきて全員の散髪をしてくれたのです。そのお父さんがこられるようになる前は、長い距離を歩いて村の床屋へ行っていました。村でも床屋があるのは、一応、村一番の賑やかな場所のせいか、3~4人ずつ連れて行って散髪して帰ってくるだけなのですが、それがとても楽しみなお出かけの1つでした。

辛いことも多々あった疎開生活でしたが、一般的に日本橋の下町の子はベタベタしていなくてドライでした。私も神田に生まれて日本橋に勤めていたので共通するものはありました。「ぐちゃぐちゃ言ったってしょうがない、なるようになるしかならない」-「ケ・セラ・セラ。こういう哲学のようなものはありました。
学校を含め、児童の家も全て東京大空襲で焼けました。疎開から戻り、学校で唯一焼け残った裁縫室で藁半紙を4つに切った卒業証書を児童に渡しました。何の式典もない卒業式でした。
私は、その後、昭和55年まで教職に就いておりましたが、遠足や修学旅行など集団で行動する時は、いつも集団疎開のことを思い出し、胸が締めつけられました。
物が飽和状態の時代に生きる今の子供たちは平気で食べ物を残したり、捨てたりするのですが、それを見るにつけ時代は変わったのだと思いつつ、何だか悲しくなります。

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