掲載日:2023年1月18日

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「非常時」 柴田 和子(しばた かずこ)

昭和6年9月に満州事変が勃発し、昭和7年1月には上海事変が起こった。巷では「満州行進曲」、「爆弾(または肉弾)三勇士」などの軍歌が流行したが、戦争の切実感はなかった。日清・日露戦争と欧州大戦(第一次世界大戦)で日本が勝ったことが大きな自信となり、また勝つだろうと人々は信じていた。「大陸では兵隊さんがお国のため、東洋平和のために戦っていてくれる」と楽観的に考えていた。
昭和12年7月に支那事変が起きた。第二次世界大戦へとつながる日中戦争の端緒である。この頃から「非常時」、「銃後」という言葉が頻繁に使われるようになり、子供の読む本にも「戦争物」が多くなっていった。
私の生家である銀座二丁目米田屋ビル内にある米田屋洋服店と柴田羅紗店からも出征兵士がだんだんと出て行った。赤紙の召集令状が来ると、指定の日に指定の場所に行き、軍隊に加わらなければならない。
働き手が兵隊に取られると、家庭でも職場でも大きな痛手を受けたが、軍人としてお国のために戦うのは名誉な事だったので、近所の人は集まって「万歳、万歳」「おめでとうございます」と祝い、歓呼の声で出征兵士を送り出した。米田屋ビルからもどんどん召集されて、従業員は櫛の歯を引くように減っていった。そして店は風船のしぼむように小さくなって、戦争の渦の中に巻き込まれて行く。

昭和13年の冬から、石油統制のため米田屋ビルは暖房中止となった。以後、火鉢に炭で暖を取るようになるが、その炭すらも入手しにくい貴重品となっていく。
昭和14年頃、戦時体制としての企業合同が始まりつつあった。柴田羅紗店の姉妹店である神田の日光羅紗店は銀座の柴田と合併して、柴田羅紗店神田店と称するようになった。
昭和14年には多くの戦時立法が生まれたが、「配給制」もその一つで、米・味噌・醤油・塩・衣料等は、割り当てられた分しか買えなくなった。
昭和15年に、銀座と神田の柴田羅紗店が合併して、神田店内に「第18配給所」が出来た。衣料品羅紗の配給所である。配給所はかなりの実績がないと作れなかったし、配給品は実績によって割り当てられた。
銀座店では、柴田羅紗店が神田の日光羅紗店と合併して神田へ移ったので、銀座の米田屋ビル1階のそれまで柴田羅紗店が在った場所に、父、三之助が中心となって新しい店が発足した。婦人服地・婦人用品を扱う店「シバタ」である。
銀座の「シバタ」は、昭和15年9月16日に新装開店した。大工・ペンキ屋等が入り、それまでの地味で重厚な店内は一変して明るい華やかな雰囲気に変わった。柴田羅紗店といういかめしい文字の代わりに、片仮名で「ギンザのシバタ」という軽快な文字が、あちこちに揚げられた。洋服屋に羅紗を切売りする店が、一般人に婦人物を売る開放的な店に変身したのである。
しかし、シバタで売られる服地は、純毛・純綿からだんだんとステープルファイバー、(略してスフ注記:)入りの、ぺらぺらした安っぽい人工服地へ変わって行った。これは、日本が物資に不足してきたからである。

昭和15年11月2日に、「国民服令」が公布され、即日施行された。国民服とは軍服に似た国防色(カーキ色)の男子服で、日本男子はこれを着るように勧められた。これさえあれば、仕事着、訪問着、礼服、あらゆる用に足りるとされた。
日本国中に「ぜいたくは敵だ」の標語が叫ばれ、女性は和服の袖を短く切って筒袖にし、もんぺを穿く事を勧められた。もはや従来のように上等な生地で背広を作るのは、はばかられる時代になった。
昭和16、7年頃、商工省からの命令で、全国の羅紗屋は転廃業を余儀なくされた。各羅紗屋は、それまでの営業成績によって救済金を受けた。
昭和17年2月1日から、衣料切符制度が実施された。日本人1人が1年間に買う衣料が何点までと制限を受けるようになり、洋服は点数が高いので滅多に作れなくなった。例えば、都市では1人100点、農村では85点が限度である。背広1着50点、袷着物48点、ワイシャツは12点であった。
昭和17年2月21日に東京府繊維製品配給株式会社が発足し、東京羅紗切売商業組合はその洋服生地部となって東京府下の洋服屋に服地を配給するようになった。服地は、商工省令により公定価格でしか売れない。東部(前述の東京羅紗切売商業組合の後身)羅紗切売商業組合の理事長をしていた伯父の柴田武治は、東京の羅紗切売業者を代表して新しく出来た配給会社の常務取締役となり、以後ずっとここに出向いたきりになってしまう。配給会社の社長には、百貨店を代表して三越専務の北田内蔵司が就任した。この頃、更に企業整理が進み、柴田羅紗店と銀座四丁目の高橋羅紗店が合併して、第12配給所が高橋羅紗店のところに設けられた。

昭和17年4月4日に、米田屋ビルの2階で新装成ったシバタの店開きが行われた。ここでは、女店員が婦人服などの仕立ての注文を受けた。シバタでは、そのほか、絹のストッキング、ベルト等、婦人用品も売っていた。
戦争が拡大する中で物資がどんどん逼迫(ひっぱく)してゆき、鉄は強制的に徴集された。米田屋ビルで使われていた鉄製の器具は取りはずされ、暖房のスチームも疾(と)うになくなり、青山墓地にある柴田家の墓の鉄具さえもすっかり取りはずされて、お国のために供出された。
柴田武治は、愛車のシトロエンを陸軍に献納しに行ったが、定めし感謝されると思いのほか「あ、そこに置いていってくれ。こちらは忙しいのだから」と言われて、がっかりして帰って来た。私の父母も、金の指輪をはじめ、持っているあらゆる貴重品を供出した。
昭和17年に、米田屋は海軍の軍服を製造することでお国のために尽くすことになった。
そこで、父の柴田三之助が社長となって、海軍の指定工場「株式会社米田屋縫製部」が発足した。工場は、米田屋神田支店のところに設けられた。
やがて工場が、深川の小口・品川にも出来た。能率が上がったので、米田屋縫製部は海軍の監督工場に昇格した(昭和19年5月28日、その祝いをする)。
軍の監督工場になると、ほかの仕事は出来なくなるが、ここで働く男子は徴用を免除され、女子は挺身隊を免除される。つまり国家から強制的に他所に働きに回される心配がなくなったのである。
米田屋出入りのミシン屋、付属品屋、大工などは、戦争のために失職していた。まごまごしていると徴用に駆り出されてしまう。そこで、彼らはこぞって米田屋縫製部に就職した。人手は集まったが縫える人はそう多くない。彼らは、荷造り・運搬・雑用に従事した。

昭和18年5月31日に、銀座の米田屋工場は閉鎖になった。以後、米田屋本店の店頭は殆ど開店休業で、たまに衣料切符を持って来る人に売るくらいであった。
昭和18年6月、遂に私たち家族の住んでいた米田屋ビルの5階は大倉組に貸し渡されることになり、私たちは初めて住み慣れた銀座の地を去った。行く先は、神田小川町(まち)の米田屋支店の奥だった。これは木造の2階家で、中庭を隔てた向う正面に店の建物があり、中庭の側面に工場があった。
学校の帰り、毎日のように銀座の店に寄っては、時々、5階の我が家の住まいの跡を見に行く。そこは大倉組の娯楽室になっていて、座蒲団に将棋盤や碁盤が幾つも置かれてあるだけで誰もいない。勿体ない、と思った。中の造作も以前のままで、ビル特有のガッチリした落ち着きを示していた。
銀座は、空襲の際の火災に備えて、銀座通りに面した家だけが残され、あとは強制疎開で建物が取り壊されて空地になっていた。従って米田屋ビルの裏は一面の野原である。
敵国であった米国と英国は、けだものに等しいというわけで、米、英の字にそれぞれ、けもの偏の付いた文字が出来た。
銀座四丁目角の服部時計店(現 和光)の前の歩道には、通行人が踏みつけて歩くようにと、アメリカとイギリスの国旗がペンキで描かれていた。
昭和18年9月22日、店主以外の14歳から40歳までの男子は、商業に従事してはいけないことになった。いよいよシバタの店から、全男子従業員の去る日が来た。
私たちは、目黒の雅叙園で送別会を開き、銀座のシバタの男子店員を送り出した。それは10月17日の、小雨の降る日だった。

雅叙園「永邦の間」で皆が筆に墨で書いた次の寄せ書きは、非常時の雰囲気をよく伝えている(旧仮名遣いのまま)。

「国家と共に栄へん」 柴田三之助
「鳥渡る国原すべて戦へり」 平澤 如春
「男の子征く大和島根は菊の陣」 高木 昇
「終始一貫」 江添 勝
「我もまた島国の勇婦菊かほる」 若林 春子
「神嘗(かんなめ)の佳き日に誓う乙女等(をみなら)は御あと守りて雄々しくぞ立たむ」 石井 恵美
「決戦のバトンを受けし娘子(ろうし)軍」 川名 政子
「決戦の秋 俺も征くぞ」 東 芳春
「何事も国のためなり振り捨てて 雄々しく立たんますらをの道」 木内 始

昭和19年4月、私は東洋英和高女4年生になったが、7月になるともう学校では授業が受けられなくなり、蒲田の安藤電機という軍需工場へ女工として通う毎日が続く。学徒動員である。
紺の制服のスカートの上からもんぺを穿き、頭に鉢巻きをして電波探知器(レーダー)のハンダ付けをした。
妹の恭子は、銀座の泰明小学校(当時は国民学校と呼んだ)の生徒だったが、学童疎開のため東京を去っていった。
空襲に備えて、神田の家に地下防空壕が掘られた。初めのうちは一部屋増えたような感じで、母と2人で興じ合っていた。よく遊びに来る母の弟の榎本正男に目隠しをして、防空壕に誘い入れ、「ここ、どこだ?」と言って驚かしたりした。日本は神国だから決して敵機には蹂躪されないという確信のようなものがあったので、何となく余裕があった。
そのうちアメリカの飛行機による空襲が、いよいよ本格的になってきた。心細かったのは、空襲警報が鳴ると、夜中でも日曜日でも、肝心の父が家を去って銀座の警防団に駆けつけることだった。

空襲が日増しに激しさを加えると、神田支店の木造家屋にいることは、最早危険になってきた。米田屋ビルを借りていた大倉組も、あまり仕事がなくなったのであろう。米田屋ビルは返され、私たち家族は懐かしい銀座に戻ることができた。忘れもしない昭和19年の12月7日、開戦記念日の前日のことである。引っ越しには4日間かかり、銀座の店員一同が手伝ってくれた。物はなくても、人手はまだあった。
最終日に、父は一同を米田屋ビル地下の食堂に招き、労をねぎらった。サイダーで乾杯し、母がお手製のすいとんを振舞った。引っ越しの間、何度も警戒警報が発令された。このあと父は銘々に10円ずつお礼を出した。
それから母と私は、銀座裏の銭湯に行ったが満員で入浴できず、引き返した。入浴難は戦後まで続く。湯舟が人で一杯で片足も入れることができない。中へ入ったら熱湯が襲って来ても外へは出られない。洗い桶の争奪戦に神経を磨り減らす。その間、服や履物は盗まれるといった具合である。
銀座へ帰っても、5階に寝ていることは危険であった。平和時に作られたビルなので、シャッター(鎧戸)はあっても、側面と裏側の火事を防ぐためのもので、銀座通りに面した表側は、1階以外はガラス戸しか張られていない。正面から焼夷弾を投げ込まれれば火事になるし、また爆弾投下の恐れもあるので、地下にいなくては危険であった。
地下の講堂、その頃の倉庫に、私たちは裁ち台を運び降ろしてベッド代りとし、そこに着衣のまま寝た。ここでも空襲警報が鳴ると、父は警防団に出かけてしまい、母と私と、疎開帰りの妹は、身を寄せ合って案ずるほかすべはなかった。

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