掲載日:2023年1月18日
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「戦争で1番傷つき、消耗したのは、世界中の母親だった」 岡村 正男(おかむら まさお)
昭和19年の8月末、疎開先吾野の法光寺へ出発の朝、水天宮の都電乗場まで、私はまるで遠足へでも行くかのように、楽しくてしかたがないという気分で勇んで行きました。親は切ない気持ちで一杯だったのかもしれませんが、当の子供たちは友達と一緒に生活ができるという興味で、ワイワイガヤガヤそれは大変な光景だったと思います。
その前、7月頃だったと思います。私は学校のぶどう棚に悪戯をして、「お前はもう疎開には連れて行かない」と先生に叱られました。私にとって憧れの疎開地へ行けないのはとても辛く、「もうしませんから、連れて行って下さい」と先生に嘆願したのを憶えています。それほど子供心に疎開地へ行くことがパラダイスのように思えたのでしょう。行きたくないと泣きじゃくる子は1人もいませんでした。
そんなにまで楽しみにしていた疎開生活にもかかわらず、私は疎開先で川に泳ぎに行って中耳炎にかかり、東京の病院でないと駄目だということで、3~4日くらいの間、東京へ帰らされたのです。その時の東京は私にはとても素晴らしい所に思え、「東京はいいなあ」と思いました。多分それは、東京での生活は疎開地のように、朝から晩まで規制されることがなかったからなのでしょう。
私の疎開生活の特徴は、何と言っても自分の母親が寮母として一緒に疎開したことでしょう。母親が一緒だということは出発の前日まで知らされていませんでした。家は燃料を扱う店を経営していましたが、統制で商いが成り立たない状況下にあったこともあり、母が寮母を志願したようです。
疎開先の母は辛くなるほどけじめをつけ、まるで「お前とは親でもなければ、子でもない」といった風に扱われました。だから私も母親が一緒にいることすら忘れたほどです。
私は副級長でしたが、ある日、3年生の子が6年生にドンブリのご飯を分けてくれたのを見た先生に叱られて、本堂に入れられ反省させられたことがあります。たまたま級長の川村君が具合が悪くて床に着いていた時で、「お前は副級長のくせに、皆に手本を見せなければならないお前が3年生の飯を取り上げるとは何事だ!」と言って殴られました。私が言い訳しようとすると、「男は言い訳などしちゃいけない」と言って、また殴られたのです。その時、後にも先にもその1度だけ、本堂で母親にこんこんと叱られたことがあります。それはこたえました。担任の川本先生には年中、毎日叱られていたので、それほどでもありませんが、母親のはこたえました。母親と疎開先でまともに話したのはその時が初めてでした。洗濯や薪割りなど、級友の中にはよく手伝いをする子がいましたが、私は手伝うことで母親に近づくと何か他人に言われるのではないかとの気持ちもあり、自然と母親とは距離を置いていたのかもしれません。
授業は村の学校で教室を借りて勉強しました。毎朝隊列を組んでお寺を出る時と、学校の校門を入る時は、「歩調を取れ!」という川本先生の合図で、軍隊式の歩調で行進しました。朝礼では、学校の校庭で、拝礼殿に向かって「海ゆかば」を歌ったのを記憶しています。
先生方は大変だったと思いますが、われわれ児童は腹が減って仕方がないというようなことはありませんでした。人伝えに聞いた話だと、村の人が「疎開の子は毎日、白いお米を食べている」と言っていたそうです。当時は、農家の人でさえなかなか白いご飯を口にすることができなかったのです。確かに白いご飯を食べることができるのですが、毎日のことで、子供だから飽きることもあります。そんな時、決まって母親から「村の人のお陰で毎日白いご飯が食べられるのだから、贅沢は言うな」と戒められたものです。
食糧や薪は、6年生が6~7人のグループを組んで先生とともに荷車を引いて、役場や有力者の家に取りに行きました。当然、行きたくないこともあるのですが、ついつい蒸したさつま芋に釣られてついて行った思い出があります。
父兄たちはよく面会に来ました。駅がすぐ近くなので、目の早い子が「~のおふくろさんが来たゾー」「~のおやじさんもいるゾー」と教えてくれるのです。甘味屋の末っ子が同級生で、かわいくて仕方がないという風に姉さんが羊羹や大福を差し入れてくれ、それが私の口に入ることもありました。甘味が不足している時で、非常に美味しかったことが忘れられません。残念ながら、私は母親と一緒にいるので、誰も面会に来てくれませんでした。私自身は意識していなかったのですが、誰の目から見ても、珍しいおやつより母親が-緒の私の方が羨ましかったようです。
中学受験のために私たち6年生だけが昭和20年3月1日に帰京しました。そして3月9日の大空襲に遇い、私は群馬の親戚へ疎開しました。群馬では上級生によくいじめられました。
「兵隊さんになりたい」というのが、当時の少年の夢でした。私も群馬の陸軍幼年学校の試験を受け、1次合格、2次試験を前橋で受けるという直前に終戦を迎え、昭和22年に東京へ戻りました。兵隊さんになると信じていたので、少しショックでもありましたが、母親にすれば志願して兵隊になるなど、とんでもないことだったと思います。上の兄が徴兵で外地へ行っており、兄の身体を気遣い、母は毎晩、水天宮さんなどへお参りに行っていました。
戦争で1番傷つき、消耗したのは、世界中の母親だったのではないかと、そんな母の気持ちも考えずに兵隊に憧れていた子供が、今大人になった時、そう思わずにはいられません。
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