掲載日:2023年1月18日
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「泰明小学校で直撃弾」 猪股 ふじ(いのまた ふじ)
年号も昭和から平成に移り、今何かひとくぎりの時代を迎えております。
昭和60数年を回顧して、この時代は激動の時代でした。戦争にあけ、戦争にくれ、日本史の一頁を飾る大異変の時代ではなかったでしょうか。
大正、昭和、平成を生き貫いた人々は多少とも戦争の影響を受けていますが、この忌まわしい事実も「喉元過ぎれば熱さを忘れる」の諺のように、忘れ去られてしまわないでしょうか。だんだんと戦争を知らない人々が増えています。
そこで私は身を以て戦争の真っ只中に立たされ、その無惨さを体験した1人です。是非将来のためにここに記しておきたいと思います。
忘れ得ぬ日とは、昭和20年1月27日で泰明小学校に爆撃を受けた日です。
その当時は、戦争が熾烈化してきたので、国の将来のために児童の生命を守らねばならないので、安全な土地に移したことです。
即ち、集団疎開をし、また家の縁故を頼って縁故疎開をしていましたので、生徒は1、2年生だけ本校に通っていて、人数も少なく、防空頭巾、ズボンのいでたちでした。授業は午前中になっていました。
職員としては、校長、教頭の諸先生と、女教師6人がおりました。
その日の様子は、久保田校長、橋本教頭先生は屋上で監視しておられ、危険を感じ、下で待機していた女教師に知らせようとして、階段の途中から爆風で投げ倒されてしまいました。野島、若月、渡辺の3先生は、直撃に遇いその場で即死されてしまいました。江尻先生は病院に運ばれましたが、間もなく息を引き取ってしまいました。
亡くなられた諸先生の顔が浮かび、壮烈な死をとげた諸先生のご冥福をお祈りいたします。また、残されたお子様、ご家族様のご苦労を考えますと、胸が引き裂かれる思いがいたします。目頭が熱くなってまいります。
他の2名、中居先生と私(猪股)は、重傷を負いましたが、生命はとりとめました。
中居先生は250キロの爆弾が落ちたのを察知したので机の下に潜ったら、ダーンと凄い音を聞いてしばらく気を失ってしまいました。気が付いて助けを求めようとすると、口の中に木屑が一杯入って、言葉になりませんでした。間もなくまわりの人々に助けられ、大東亜病院(現在:聖路加病院)に収容されましたが、全身に重傷を負われて、1か月間は破傷風と戦いながら生死の境をさまよいました。その後、退院されましたが、後遺症として右手がご不自由で、日常生活に支障をきたすようになりました。ご主人様も看病疲れで先立たれ、ひとり暮らしを強いられたのですが、63年5月、80歳の高齢で、病院通いの際、自動扉でころばれたのが原因で死亡されました。生涯泰明を愛し、泰明校の皆様に助けられ、遺族の方々のお世話もよくなさいました。敬服いたしております。
私は今では、泰明校爆撃を受けた随一の生残りになりましたので、殉職された先生方の様子を知らせるのが私のつとめだと思い記しました。
私はあの日、どんよりと曇った午後のことです、生徒を数寄屋橋へ送り届け、ひと休みをしていたら、突然、空襲警報が発令され、いつものように身支度をして、丁度その日は記録係でしたので、ラジオの前の机に行き、「第四編隊、東京上空にあり。」と記録しました。と、突然、うなるような鈍重な響きが聞こえ、地響きが起こり、部屋全体が大揺れに揺れたので、近くに落ちたのでないかと一瞬思ったまま机の下に伏せの姿勢をしたとたん気を失ってしまいました。気が付いてみると、身体は瓦礫に埋もれ、粉のようなガラスが積み重なって身動きできず、ああ大変、早く起きなければと思い、右手を床につけさせようとすると、カクッと折れてしまいました。左手に白い手袋をはめていたので、その方を上に上げて助けを求めました。警防団の方々やA様に助けられタンカに運ばれましたが、再び気を失ってしまいました。近所の3軒の医院は避難して医師がおらず、救急車で築地病院(海軍病院と併設された)現在の癌研に運ばれました。病院で揺り起こされて、住所をたずねられたので「スギナミ」と声を出したつもりでしたが言葉にならなかったのです。後でわかったことですが、右頬から口元まで大きな穴があいていたそうです。生きていることがわかったので、25人の大部屋のベッドに移されました。
それから2か月間、生死の境をさまよいました。「ダイヤモインド取り」と称して、身体の中の無数のガラスを取り出して、教壇に立てるようにと目、鼻、耳、頬、手、足、再起するのに支障がないように治療して下さいました。しかし戦争も熾烈になったので、物資も不足し、終わりには麻酔もなく、患部をしっかりと押さえてガラスを取り出し、ガーゼ等もだんだんなくなり、雑誌の紙に薬を塗ってつける状態でした。でも、お陰様で生命はとりとめることができました。しかし、その間、私も必死に痛みに耐えました。その当時は母と娘の生活でしたので、母の為にも立派に立ち直らねばと決意し、母も老いを忘れて看病してくれました。
入院している間にも空襲に遇い、危険なので3か月余で杉並の我が家に帰り、その後2年間に4回も東大病院(今までの病院はなくなりました)で整形して貰い、その間も泰明小に勤務させて戴きましたが、遠くて通い切れず、特に顔の傷は人様に異様に写り、口惜しく、悲しく、辛く思われる時期がありました。幸い教職にありましたので、周囲の暖かい心遣いで間もなく自宅の近くに転勤し、4校を経て定年間近まで勤めました。しかし、その間、10年定期異動の時は苦労しました。周囲の信頼を得る為に、私としては人一倍努力せねばと頑張ったつもりです。
今は人並みに結婚でき、朗らかに明るく暮しておりますが、しかし考え込む嫌なこともあります。従来が明るいこだわりのない性格なので、今後も友達や地元の方々に助けられ、元気に朗らかに生きていきます。
でも、私にはまだ戦争は終わっていません。それは無数に入ったガラスが禍をするからです。現在、掌に9個のガラス、右肘に6個、右耳下に大小8個くらいと磨滅して入っているので、先日は三叉神経、顎関節炎で悩みました。老化と共にいつ禍が起こるかわかりません。
でも、こんな思いをするのは私ひとりでたくさんです。戦争は2度と起こってはなりません。犠牲になられた先生方の死を無駄にしてはなりません。特に一昨年亡くなられた中居先生、同じ体験の方に先立たれ、悲しい思いで一杯です。
戦争を知らない方々に、戦争の悲惨さ、むごたらしさ、苦しさ、悲しさを知って戴きたいのです。先日、開校記念百十年に泰明の児童に体験談を話させて戴いたことに感謝いたします。
戦争より立派に立ち直った日本、益々発展させ、絶対に戦争を起こさない平和の日本になるために役に立てばと記しました。
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