掲載日:2023年1月18日
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「茅場町の理髪店」 橋本 正一(はしもと しょういち)
当時、私は「三宅理髪店」(茅場町2-2-1)で働いていた。親方が昭和18年の春に出征したので、3人の男の職人の中で私はいちばん年少だったが、足が悪くて
兵隊に採られる心配がないものだから、店を任せられた格好になっていた。
空襲でやられたのは、昭和19年11月29日の深夜である。私の住居は店から少ししか離れていなかったので、その夜は、空襲警報のサイレンを聞いてすぐ「三宅理髪店」に駆けつけた。12時少し前くらいで、その30分ばかり前に警戒警報が出ていた。
店の奥の居間の下が防空壕になっていた。私はまず、親方のおやじさん、おかみさんと住み込みの女職人3人を壕に入れ、そのあとから大事な商売道具の剃刀、鋏、バリカンを持って入った。11月に入ってから、警戒警報や空襲警報がしょっちゅう出ていたが、ほとんど被害らしい被害はなく、なれっこになった感じで、畳の蓋も閉めず、みんなで冗談を言ったりしていた。
近所の人が来て、「なんでも三越の方が燃えてるらしいよ」と情報を知らせてくれたが、「それなら、かえって、こっちの方は大丈夫だ」なんて、安心したのを覚えている。
1時間ぐらいたったころ、右隣りの方で、ゴーという物凄い音がして、屋根がパリバリいう音、そしてものが燃えるパチパチという音がした。「爆弾でも落ちたのかな」と思う間もなく、店の窓ガラスを突き破って焼夷弾が2、3本飛び込んできた。そのうちの1本が火を吹きだした。
私も若いから元気がよかった。興奮していたからかもしれないが、怖いという気は全然しなかった。
壕から飛びだしてみると、店の羽目板がメラメラ燃えだしている。火の勢いはたいして強くない。座布団を叩きつけたりして、その火はすぐ消し止めた。
近所の2、3軒にも焼夷弾が落ちたが、幸いなことにほとんどが不発弾で、2、3本がチョロチョロ燃えだしたぐらいだったので、大事に至らず、みんなで消し止めた。
この騒ぎで、近所の人たちがみんな外に出た。女の人たちは肩を抱き合って「よかった、よかった」とお互い喜び合った。
午前3時ごろ空襲警報解除のサイレンが鳴った。おかみさんは「もう今夜は大丈夫だろうから、ハシさん、お前さんの家にお帰りよ」と言ってくれたが、帰る気にならなかった。
畳を元通りにして、そこに布団を敷いてみんなで雑魚寝となった。
明け方近くなって、「火事だ、火事だ」とだれかが大声でどなる騒ぎで目が覚めた。
外へ出てみると、市場通りの向こう側が火事だ。そこは「ボルドー」というサイダーやジュースを作っている会社の倉庫だった。そこに落ちた不発弾が、何かのはずみで火を吹きだし、人が住んでないものだから燃え広がったらしかった。「風向きがいいから、こっちは大丈夫だ」と思っていたら、30メートルくらい離れた裏のタバコ屋から火が出た。
「さあ、大変だ」てなもんで、近所の男性4人で手押しポンプ1台を引っ張って、駆けつけた。「よいしょ、よいしょ」と掛け声は威勢がよかったが、いくらもやらないうちに木でできたポンプの腕がポキッと折れてしまった。そのうちに、火の手はどんどん強くなり、隣の洋服屋が燃え始めた。消防車なんて1台も来ていない。「こりゃ、もう駄目だ」と思った。
私の住居は茅場町一丁目の茅場町会館というアパートの6階で、4畳の狭い部屋だった。会館は鉄筋コンクリート造りだったから、大丈夫だと思った。一丁目の方には火の手はあがっていない。高いビルだから、夜目にすかして無事なのがわかった。そこへ避難しようと思った。「三宅理髪店」のおかみさんは、「もう少し、もう少し」と、欲張って風呂敷に着物を包むのに夢中だったので、「命あっての物種ですよ」と叱りつけてしまった。無傷の茅場町会館にたどり着いた時は、やれやれという思いだった。
「とにかく無事でよかった」というのが、みんなの思いで、不思議に「焼けて残念だ」とか「悔しい」とかいう気は起きなかった。
とてつもなく興奮していたからなのだろうか。
一眠りしてから、やはり店が気になって、おかみさんたちと行ってみた。「もしかしたら」という気がないでもなかったが、店はやはり完全に焼け落ちていた。ところが、どういう風の吹き回しだったのか、交差点近くの1番地の一角が焼け残っているではないか。それを見て、おかみさんが「悔しい、お父ちゃんに申し訳ない」と急に泣きだしたのを、今でも思い出す。
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