掲載日:2023年1月18日
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「疎開先の牛乳」 渡辺 正(わたなべ ただし)
昭和19年、私たち教師は学童を空襲の危険から守るために学童集団疎開の準備にあたっていました。区から疎開先地域の指定を受け、当時の泰明国民学校校長久保田亀蔵先生とともに現地視察を行なったのです。道路状況、医務関係、居住性、水の問題など受入れの準備状況を、当事者として久保田校長が下見をされるというので、私も同行しました。当時のバスはガソリンがないため、後部で薪を焚いて走っていました。私たちはそれに乗って、受入先の村に到着しました。村は清らかであるけれども銃後の村の寂しさが感じられたのが印象的でした。
私たちが視察したのは現在の深谷市、旧大里郡新会村、八基村の2か村で、新会村は成塚、高島等、八基村は手計等を見回りました。
その後、区からの指示で村長さんたちが動いてくれて、疎開学寮に便所や炊事場等が作られていきました。「総力戦」「一億一心」の時代で、特に学童疎開は国策ということもあり、熱心に協力してくれました。
最初の下見のあと、さらに私は受入先の寺院の便所や洗面所の改造状況、水の流れ、かまどの様子、学童たちの荷物の収納場所の設置状況等を検分するため、再度村へ足を運びました。
このようにして児童の受入体制が整い、泰明国民学校は新会村の東雲寺、大林寺、正伝院、宝蔵寺、社務所、八基村の妙光寺にお世話になることになりました。私は6年生と4年生の男子の一部28人に付き添って宝蔵寺に行き、そこで忘れられない疎開生活が始まったのは昭和19年8月末のことでした。
4年、6年の男子は宝蔵寺と社務所の2学寮に分散して疎開しました。4年、6年に兄弟がいる児童は同じ学寮で生活できるように配慮しました。また、親の希望で慣れた先生のいる学寮に編入するようにも考えられました。いずれも親元から離れて生活する子供たちの寂しさを軽くし、父母たちに安心してもらうための配慮でした。
宝蔵寺での班編成は6年と4年一緒のいわゆる縦割りのグループを作りましたが、生活に慣れるまでは大変でした。私の他には職員としては寮母さん1人、地元の賄い婦さん1人、そしてお寺の奥さんがよく手伝ってくださいました。特に賄い婦さんが地元の方であったのが幸いして、野菜等の面倒はよくみていただきました。
学寮での生活は、規律ある中にも家庭的な雰囲気を出すよう考慮しました。観光地へ疎開した他の学校に比べると物資に恵まれ、村の人たちも疎開用の米やじゃが芋、さつま芋などを供出してくれるなど、疎開児童たちに気を配っていただきました。
疎開当初は米のご飯を食べることができましたが、後半になると麦やコーリャンが混ざり、赤い色のご飯に変わりました。そのような中で、ありがたいことに疎開先で、酪農を副業としていた農家がまだあったので、牛乳を飲むことができたのです。
村の人が「飲むならうちの乳牛の乳をしぼってやるよ」と言ってくださり、好意に感謝しながら1週間に1度ほど八基村まで取りに行きました。肉や魚の少ない当時としては、子供たちの成長に欠かせない貴重なタンパク源で、本当に助かりました。
初めの頃は私が自転車で運んでいましたが、後にはリヤカーを借りて運びました。児童たちも進んでリヤカーを押したり引いたりして、班単位で奉仕してくれました。
その牛乳は宝蔵寺だけでなく、周辺の泰明国民学校の寮にも配って回りました。牛乳を運んでくれた児童たちは、各学寮でそのお礼にといっていただくおやつが楽しみでもあったようです。
授業は学校の雰囲気を忘れないために新会村の国民学校の教室を借りて行ないました。毎日、葱畑や麦畑の間を通って通学していましたが、空襲警報が度々出される頃には勉強らしい勉強もだんだんできなくなり、学校へ行っても学習時間が期待できなくなって、最終的には寮で学習を行なうようになりました。
疎開生活で一番困ったのは児童たちの急病でした。急病人が出ると、友だちがリヤカーを引き、私が付き添って医者へ運んでいきました。
東京を出発する前に足を痛めていた子がいましたが、疎開地でさらに悪化して、包帯を巻いた足を引きずって歩く姿が痛々しく、たまらない気持ちでした。その子の毎日の通院が私の日課になりました。どんなに寒い日でもリヤカーに乗せて村の医者に行きましたが、疎開学寮では職員が少ないため、私が病院に行くと手薄になってしまうのが一番困りました。
疎開生活で、私が児童たちに学んでほしかったのは、耐乏生活の中でも人の和を願ったり、自然を愛したりする心でした。それが十分に指導できたかどうかは分かりませんが、とにもかくにも親元を離れた子供たちの生活はこのように送られたのでした。
疎開先といっても、いつ空襲がくるのかわからない状態で、ここでも防空壕を掘りましたが、結局その壕に待避したのは数えるほどしかありませんでした。
宝蔵寺には昭和20年10月までお世話になり、その後は社務所の学寮に合併され、21年3月東京に引き上げるまで社務所にいました。社務所の設備は宝蔵寺に比べると少し手狭でした。風呂は野戦風のドラム缶風呂で、1組4人が2人ずつ入れ替わりで入りました。建物は寺より新しいので建てつけがよく、しっかりしていました。
社務所にいたのは、疎開した当時は4年生だった新5年生で、卒業学年の6年生は20年3月に帰京して行きました。3月10日の大空襲で命を失ったり、消息不明になった教え子が3人もいました。あの時東京へ引き上げなければ、あるいは命びろいをしたのではと、無念の思いでした。
今でも湾岸戦争などで建物が破壊された状況を見ると、昭和20年1月27日の校舎被弾で殉職された、江尻先生、野島先生、岩月先生、渡辺先生、重傷を負った中居先生、猪股先生のこと、昭和20年3月9日から10日の東京大空襲で消息不明になった教え子たちのことや、同年5月24日の銀座空襲の時の校舎全焼のことが思い起こされ、戦争の悲惨さに唇を噛む思いです。
戦争の悲惨さを知っている大人たちは、平和を守ること、平和を愛することの大切さを、経験を通して後世に伝える使命と義務があると思います。
注記:この原稿は渡辺正氏の談話をもとに編集したものである
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