掲載日:2023年1月18日
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「農家に分宿して腹一杯のご飯を」 青木 貞治(あおき さだじ)
常盤国民学校の児童のうち5年生と3年生あわせて80名くらい(5年生が50~51名)を連れて、埼玉県比企郡福田村(現 滑川町)の成安寺に疎開したのは、昭和19年8月25日でした。
引率の教員は、寮長の水越先生と私(5年生担任)の2人でしたが、寮長の仕事は大変なので担任をはずしたため、翌年4月に大塚先生(女性)が着任されて3人になりました。
成安寺の庫裏の10畳4部屋が住まいでしたから、1人に布団1枚は無理で、部屋一杯に布団を敷いて、頭を合わせて寝ました。1部屋に1人の寮母がつき、中に看護婦の資格のある人も1人いたはずです。
何しろ、10キロメートル近く歩いて行かないと医者のいないという無医村ですから、ちょっとした注射は看護婦か、いない時は私がやりました。薬は子供の親元に薬問屋がありますから、いくらでも手に入るわけですが、風邪をひくくらいで余り病気にはなりませんでした。食べ過ぎるということもないので、腹痛もありません。疎開中、病気で帰京したのは1人だったと思います。ただしノミやシラミが多いのと、水が東京の水道から井戸水に変わったことで皮膚病が多く発生して困りました。
受け入れ側の成安寺(住職は出征中で奥さんと子供だけだった)も村も非常に好意的で、よくしていただきました。学童用の配給キップは持って行きましたがそれだけでは足りませんので、農協もよく協力して下さって“特別配給”をもらいました。
学寮の食糧が乏しくなってくると、「何とかなりませんか」と親しくなった農家の人に言います。すると「先生、家へお客に寄こしなさいよ」と言ってくれました。12軒の農家に「分宿」して、農業の手伝いをし、腹一杯ご飯をご馳走になって、帰りにはさつま芋等のおみやげを持たせてくれるのですから、児童たちは喜んで行きましたし、よく働きました。
分宿によって、子供はその家の子供や親と親しくなり、今でも第2の親として親しく付き合っている人もいるくらいです。
また、地元の福田国民学校と親御さんの姿勢からだと思いますが、週1回くらい学校で「疎開の子供は野菜が少なくて困っているようだ。今日は何年生か野菜を持って来てくれませんか」ということで、例えば1人1個ずさつま芋を持って来たのを集めて下さいました。お陰で寮の床下はかぼちゃの山、ということもありました。
分宿やこうした交流を通して地元の子供とは仲良しになりましたし、運動会・学芸会・展覧会や祭等の特別な行事は一緒にしたこともありましたので、いじめなどはありませんでした。
常盤国民学校の疎開は、後から考えるとかなり恵まれていたようで、幸せだったと思います。初めの頃は、日本橋は金持ちの問屋が多い所でしたから、薬品や衣類もありましたし、酒や砂糖も届きました。それらを農村の困っている人にあげて食べ物をもらったりしました。しかし、しまいにはやはり、子供たちも、先生の食事と自分のを見比べたりするような状況になりましたが。
当初から、私のモットーは「私はみんなのために、みんなは私のために」という事でした。人間は1人では生きられません。だから、疎開生活の中で子供同士を繋ぐことに力を入れました。先生と子供、寮母と子供の関係も、年齢も余り違わない兄弟みたいなものでした。
また、寮長が立派な人で、その土地にいかに早く溶け込むかが基本的な考えでしたし、私も「教員も子供も地域の一員だ」と考えていましたので、土地の人と親しくなるのに余り好きでない酒を飲んだりもしました。その結果、村の有力な方や先生方が非常に同情して下さったり、その輪が地元の人に広がっていったと思います。
子供たちも、そういう人間関係の中で、疎開の苦しかった事を昇華し、自分の人生の中の大事な時だったと考え、その経験を今も生かしているのではないでしょうか。
その事は、私も教師としてうれしく思っています。
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