掲載日:2023年1月18日
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「戦争が終わった時、町が明るくなった」 加藤 昌吉(かとう しょうきち)
戦争当時、私は父を手伝って家業の理髪業をしていました。その頃一緒に生活していたのは両親と妹の4人で、下の弟は兵隊に行き、末の弟は学童疎開でいませんでした。
昭和18年から軍に徴用され、私は蒲田の石井精密工業株式会社に通勤するようになりました。そこでは、ダイス・タップ等の切削工具を作る仕事をしました。工場には、女子挺身隊として良家の女中さんや、学徒動員された地元の女学校の生徒さん等も来ていました。
通勤ラッシュは現在よりひどく、電車の窓ガラスが割れることもあり、そのあとには板が打ちつけてありました。都電にぶら下がって行ったこともあります。
半年ほど寮に入りましたが、食堂の雑炊に行列しました。雑炊といっても、しまいの方は泥が入ってザラザラですが、それでも並びました。さつま芋の種芋まで食べたり、砂糖を楊子の先につけてなめた記憶もあります。
米は1升びんで搗いていました。しかも、配給をもらうには遠くまで行かなければなりませんでした。私はともかく、一家の食糧を探す母が1番困ったろうと思います。
衣料品は、なくなるという噂があったので買っておいた物がありましたし、つくろって着るのが当たり前だったから何とかなりました。理髪業で使うタオルといっても、坊主頭ばかりでしたからそれほど困りませんでした。石鹸はなくて、ソーダ石鹸を使っていました。
特になくて困ったのは靴です。タバコも好きだったので不自由しました。幸い、八重洲で友だちがタバコ屋をしていたので、私は1週間に1箱くらいは特別に入手できました。
3月10日の空襲は、私の家の一角には実弾は落ちませんでしたが、隣の小網町に落ち、その煽りで町内の岡島さん(写真屋で当時疎開をしていて留守)の家の戸袋に火がつきました。そこで、近くの井戸水をポンプで汲み上げ、隣組の人たちが2列に並んでバケツリレーをして消し止めました。あの時は、防空演習も役に立ちました。
同じ日、火の手が上がるのを見て、隣の大国屋(酒類の運送屋)さんが「梅酒があるのだが、どうせ焼けるなら飲もうか」と言うのです。そこで、その場にいた5人ほどで飲んでいました。隣組は10軒ほどありましたが、こういう具合ですから、付き合いは今と違ってうまくいっていました。
昭和20年5月に、私は2度目の入隊をしました。ある時、六本木の陸軍の本部に行ったところ、剣鞘が並んでいてどうしても見覚えがある。それもそのはず、アメリカの焼夷弾の外側の鉄をプレスして鞘にしていたのです。
それを見た時、戦争は負けると内心では思いましたが、少し変わった発言をしただけでも捕まる時代でしたから、口には出しませんでした。
当時、徴兵検査まではタバコは吸ってはいけないことになっていましたが、終わったので私はもうタバコを吸ってもいいと思って吸っていたところ、警官に「徴兵検査が済んだら吸っていいという決まりがどこにあるか」と言って交番に連れて行かれ、殴られたことがありました。
また、近所で子供が縄跳びをしていて「おまわり、おまわり」と声をかけて遊んでいたら、「おまわりをバカにした」と言って交番に連れて行かれ、親があやまって引き取って来た、ということもありました。
これらのエピソードは、あの時代を語るに充分でしょう。
「戦争のため死ぬ」と教育され、若かったので無我夢中で過ぎましたが、戦争が終わった時は、それまで暗かった街が1度に明るくなったのが、本当に嬉しかったです。
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