掲載日:2023年1月18日

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「隅田川の網船も燃えた」 中里 隆介(なかざと りゅうすけ)

当時、私の家は両国橋西詰、一銭蒸気の乗船場の前、青山渋谷行市電の折り返し終点のまん前で、釣船・網船屋で9代目、すずめ焼・佃煮屋で4代目武蔵屋を名乗っておりました。昭和19年暮れに私は帰休兵として軍隊より両国へ帰って参りました。戦況は日増しに悪くなるばかり、と言って私共には疎開する田舎がありません。61歳の母を抱えて思案をいたしましたが、先ず防空壕を造ろうと、早速私共の船用の桟橋の入口の横に造り始めました。

昭和20年に入り、たしかこの冬はかなり厳しい寒さでした。そして空襲も激しさを増して、寝る時には上着は着っぱなし、ズボンも靴下もつけたままで、枕元には防空頭巾、鉄帽、ゲートル、貴重品を入れたズックカバンを並べて、真っ暗闇でも警報が出ればすぐにこれらを身につけて飛び出せるように用意しておりました。

3月9日はよく晴れた寒い日でした。日陰には先月降った雪が黒い塊となってあちこちに残り、露地を渡ってくる風は身を切るような冷たさでした。日中に一度警戒警報が出ていましたが、夕方に解除となり、早く夕食をすませて、少しでも多く寝ておきたい思いで床につきました。

床について少しまどろんでいると、いつものあの悪魔のうなり声が遠くから夜空いっぱいに響いて来ました。川の端に立って悪魔のうなり声が響いて来る新大橋の方を見ますと、何かちらちらと火がゆれながら降ってきました。『おかしいな』と思いながら見ておりますと、深川の方に突然ぼっと火の手が上がりました。「空襲だ!」私は大声で叫び、報せ廻りました。新大橋の東にあった浅野セメントの工場あたりにも火の付いたものがばらばらと雨のように降って来ました。深川、本所方面にはすでに火の手が上がり、その炎の明かりは飛んで来たB29を照らし出し、B29の窓までもハッキリと見えました。その頃、やっと警戒警報のサインが鳴りました。

焼夷弾は浅野セメントエ場方面から降ってきて、やがて浜町河岸の生稲、福井楼、千代田小学校、そして七條洋紙店あたりにも火の手があがりました。この頃になりますと、両国橋の周辺にはかなりの数の人々が集まって来ておりました。矢の倉からお不動様の方角はもう紅蓮の炎でまわりの人々の顔がはっきりとわかる明るさになっておりました。

B29は、ビルの屋上から竿を出せば届くくらいの超低空を次から次と飛来します。隅田川には燃えながら流れて行く伝馬船が1つ、2つと見え始め、私共の網船も燃え始め、桟橋にも火がつきました。バケツに綱をつけて川の水を汲み上げては桟橋の火にかけて消し、再び火がつくと、その都度水をかけて消しておりました。

とうとうわが家も燃え始めました。50メートル離れた川岸に立っていても熱く、防空頭巾に火の粉が飛んで来ますとすぐ燃えあがり、その度に消したり、消してもらったりの助け合いでした。柳橋から代地あたりも火の手があがり、小松屋釣船店の連中は釣船に乗って両国橋の橋の下に難を逃れていました。B29はその炎を反射してキラキラ光っていました。われわれを押しつぶさんばかりの超低空を機銃掃射をしながら次から次へと飛んで行き、それを見送る私たちは、ただ悔しさだけが全身を突き抜けていきました。

隅田川は両岸の火災の炎で川開きの時よりも明るく、その明るい中を水死か焼死かわからない死体が数体ずつの塊りをつくって、引潮に乗って両国橋下流へと流れて行きました。出羽海部屋の側の旧百本杭付近には伝馬船が燃えていました。当時水上消防艇という船がありましたが、この船でさえ、とても消火にあたることもできず、逃げまどうように川下へと走って行きました。

どのくらい時間が過ぎたかわからないうちに東の空が白みかけてきました。夜が明けて見たその光景は、あまりにも無残な、あまりにも情けない、どうにもやるせない現実がそこに浮び上がっていました。ミツワ石鹸、千代田小学校の焼けた残骸が空しく残り、その付近はまだくすぶり続け、人気(ひとけ)は全くありません。国技館の円い屋根も、ちら、ちら、ちらと炎が出ておりました。

わが町両国は完全に焼け、万寿堂薬局とか、金座通り近くの数個のビル、ミツワ石鹸丸見屋、千代田小学校の残骸が、ぽつん、ぽつんと亡霊のように立っていました。潮が引いた隅田川の川べりには数百、数千の六角形の焼夷弾がドロに突きささり、この空襲でどのくらいの方々が亡くなられたのか、その方々への供養の卒塔婆のようにさえ見える光景でした。

10日昼頃に、どこの連隊かわかりませんが、兵隊が鳶口を持って隅田川岸に打ち上げられた箪笥等をひっくり返しながら新大橋の方向へぶらぶらと、数人ずつが歩いていきました。
両国橋のたもとに立って西の方を見て驚きました。神田、秋葉原間の省線の陸橋の向うに靖国神社の大鳥居が、かすかですが見えておりました。隅田川が満潮になると、死体が川下から累々と流れに乗ってゆっくりと川上へ向かって流れのぼり、沈みかけた伝馬船にも死体が重なり、同じ速さで流れて行きました。

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