掲載日:2023年1月18日

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「戦時下に生きて」 渡辺 登美(わたなべ とみ)

私が生まれたのは浜町、育ったのは茅場町、お嫁に行った先が人形町、嫁いでからは、つい先だってまで30年余りの間、蛎殼町で「明石(あかし)」というフグ料理屋をやっておりました。ですから幼い頃からずっとこの界隈に起こったことを見聞きして暮しています。

私は阪本小学校を卒業しておりますが、ちょうど3年生の時、二・二六事件に遭遇しているんです。当時は今に比べて東京にもよく雪が降りましたが、その日も大雪で、降りしきる雪の中を長靴を履いて、ヨットコ、ヨットコ歩いて行ったのを覚えています。

学校の前まで来ますと、門のところに守衛さんが立っていて、「ごくろうさん、きょうはこのままおうちへ帰りなさい」と言うんです。「えー、どうして?雪の中をせっかく来たのに・・・・。おじさん、何かあったの?」「ちょっとね・・・・。あとでラジオで聴くだろうけど、今は何も言えないから、とにかくおうちへ帰って、外に出ないでいるんだよ」

その時はなにしろ子供のことですから、学校が休みになったということが嬉しくて、とんで帰りました。家に帰ると、母がラジオの前に座って、真剣な顔をしてニュースを聴いていましたが、私には何も教えてくれませんでした。

何日かたって、近所の家の息子さんが、その事件にかかわっていたとかいうことで、事件の直後、自殺されたと言うことを知りました。残された親御さんがかわいそうだと、みんな涙ぐんでいたのを記憶しています。

日本橋区が初空襲に遇った時のことは、今でも忘れることはできません。私の実家は日本橋茅場町二丁目7番地にあって、父の姓は真杉といいました。

当時阪本国民学校の3年生で、埼玉県のお寺に学童疎開に行っていた姪のみよ子から、「お手玉を送ってほしい、お手玉を送ってほしい」という手紙が何度もきていたんです。私たちは何も知りませんので『疎開先でお手玉遊びをしているんだな』なんて思って、生小豆(ナマアズキ)を入れて、せっせとお手玉を作りました。東京が空襲を受ける前でしたから、乏しいながらも、まだ、あちこちから食糧を集めることができました。それでおにぎりを作ったりして、私がお手玉とー緒にみよ子の疎開先のお寺に持って行ったんです。お寺のあった村の名前は忘れましたが、大宮の駅から歩いて行けるところでした。

みよ子は、私の姿を見ると飛んできましたが、あんまりやせ衰えているので、びっくりしました。その時になってやっと、みよ子が疎開先でお腹が空いて、食べるものがなくて、お手玉の中の小豆を食べていたことを知ったんです。それでお手玉、お手玉と言ったんだなと、改めてやせた姪の顔を見ますと、不憫で、胸がつまりました。

「もう、ナマのアズキなんか食べちゃだめよ」と言いましたら、「だって、お腹が空いて我慢できないんだもん」と言うんです。疎開先では、こんな幼い子供までが食べ物には苦労していたんですね。

みよ子の疎開先のお寺から帰ると、その日はあんまり疲れていたのでぐっすり眠っちゃったんです。忘れもしません、昭和19年11月29日の夜のことです。

寝入ってからしばらくして、ドドドーンというすごい音で目を覚ましました。ガンガン、ガンガンと、今まで聞いたこともないような音がしています。真夜中だというのに家の前でたくさんの人が騒ぐ物音もしています。私は急いで着物を着て、その上からモンペをはくと、外へ飛び出しました。

その頃は、まだ防空壕なんてどこの家もつくっていない時期でした。まさか、日本が、そして自分たちが住んでいるところが爆撃されるなんて、誰も本気で考えていなかったんじゃないでしょうか。

外へ出ると、私の家から1軒おいた家が火を出して燃えているんです。煙がどんどん出ているのに、消防ポンプが1台も来ていません。それを見ると、私は急いで家にとって返し、兄嫁に「義姉(ねえ)さん、さあ、子供を背負って、座布団を1枚、頭にかけて、急いで坂本公園に行っててよ。父さんも、一緒に行っててよ」と叫ぶと、(今となっては、どうしてそんなことができたか、とても考えられないのですが)家の中に入って、お位牌と過去帳をとり出すと帯の間に入れて、さらに小型金庫を持って表へ出たのですが、『そうだ、父さんの背広が2階にかけてあったっけ』と思い出して、2階に上ろうとしましたら、2階へ上がる檜の階段が、まるで映画で観るように紅蓮の炎をあげて燃えているんです。

ああ、もう、だめかな・・・・、とぼんやりしていましたら、家の前を駆けていく男の人が、「おねえちゃん、入っちゃだめだぞ!」と声をかけてくれたんです。それで、はっと気がつき、外へ走り出ましたら、火の勢いは、もう、何とも言えないくらい激しくなっていました。

私の実家のあった界隈は、その頃、酒樽などを使って防火用水桶にしていたのですが、すっかり蒸発してしまって、桶の中には1滴の水もなくなっていました。それにもかかわらず、からっぽの桶から水を汲み出そうとしている男の人や、動転して桶の回りをドンドンと叩いている男の人が何人かいました。

すぐ近くの田島さんというお宅では、旦那さんが、「さあ、逃げるぞ!」と言いながら、奥さんを赤ちゃんと一緒に抱き上げて家から出た瞬間に、屋根が炎をあげて落下したんです。

やがて、間もなく、私の家の2階にも火が移りました。それを見るや、私も坂本公園の方へ走り出したのです。

その頃になっても、あたりには1台の消防車も見当たりません。後で聞いたことですが、最初、日本橋の三越の方に爆弾が落ちたため、消防車は、みんなそちらの方へ出払ってしまっていたのだそうです。

なにしろ夜間空襲でしたから、まだ夜は明けてきません。私は懸命に走りました。

息せき切って坂本公園に着きますと、公園はもぬけのから。びっくりして、辺りを見回し、近づいてきた人影に声をかけました。「今、避難してきた人たちはどこへ行ったの」「東洋ホテルにみんな避難しているから、行ってご覧なさい」

東洋ホテルというのは、当時、市場通りの角にあった大きなホテルのことです。私は東洋ホテルに向かって駆け出していきました。

東洋ホテルは、電気が消えて、まっくらでした。その中で、たくさんの人がうごめいているようでした。

その暗闇の中で、「こんなところから水が出ています」と声を張り上げたのは、私の姉でした。「姉さん、そこにいるの-」と声をあげますと、「登美、ここだよう」と父の声が返ってきました。その声が震えているんです。

父だけではありません。そのまっくらなホテルの中で、みんな驚きと恐ろしさで震え上がっていました。

ホテル側では、床にゴザを敷いてくれ、避難してきた人たちに布団まで貸してくれたのですが、その夜は誰もとても眠るどころではありませんでした。みんな座りこんで、「またやられたら、明日はどこへ逃げよう・・・・」「いよいよ、東京を逃げ出すよりしかたがないのか・・・・」「田舎のないものは、どうすればいいんだ」などと言い合いながら、ブルブル震えていたんです。そんな中で、私はひそかに『ああ、日本はもう負けた・・・・』と、心の中でつぶやきました。『用水桶なんかであの焼夷弾が防げるものか。箒(ほうき)なんかであの火が消せるものか・・・・』そう思いながらも、その当時、それは決して口に出して言えることではありませんでした。

この空襲は、東京の相当広い地域にわたって災害をもたらしたようでした。私たちのところでも1町会が全滅したのです。

翌朝、今の時代でしたらテレビ局の取材ということになるのでしょうが、当時のことですから新聞社の方々がさっそくやってきました。「亡くなった人はいらっしゃいますか?」と尋ねられて、誰もがみんなショックで口が震えちゃって何も言えないんです。私もそれまでは気丈に通してきたつもりだったのですが、やはり何か話そうとしても歯の根が合わなかったですよ。

その時の空襲で、私たちの町内では亡くなった人が1人だけございました。ご近所のお宅の赤ん坊です。

その家は、私の実家のすぐ近くでした。そこの奥さんは、どちらかと言うと普段から少しおっとりした人だったのです。その奥さんが赤ちゃんを背負って逃げたのは私たちも見ていたのですが、逃げている途中で背負っていた赤ちゃんを落としてしまったのに気がつかなかったようなんです。

赤ちゃんを発見したのは、消防署の人でした。みんなが避難した東洋ホテルのわきの道で、最初はセルロイドのお人形が落ちていると思ったそうです。『あれだけの火災の中で、よく焼けないでいたな・・・・』と思ってよく見ると、それは赤ちゃんの死体だったということです。

その赤ちゃんが、その時の空襲で亡くなった町内では唯一の犠牲者で、あとはみんな、あれだけの火災の中でも何百人という人が大きなケガもしないで行動したんですね。

この空襲の時には、まだ親戚の中でも被害を受けてない家があって、「焼け出されちゃってかわいそうに」と食糧を持ってきてくれたりもしましたが、私のところは3代続いた江戸っ子なので田舎がございません。ですから戦争中、食べ物にはずいぶん苦労しました。

11月30日未明の空襲で茅場町の家を焼け出されてしまった私たちは、高田馬場にいる知り合いを頼ってまいりました。そして高田馬場で終戦を迎えたのです。

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