掲載日:2023年1月18日

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「隅田川に流れる死体」 工藤 利一(くどう りいち)

東京大空襲の当時、私は29歳だった。住居は京橋区小田原町、現在の築地六丁目である。妻(23歳)と女児(2歳)を昭和19年12月4日、群馬県甘楽郡の長野県境のごく片田舎へ疎開させた。
私は徴兵、徴用を免れたので町の警防団特別警備隊員として、警戒警報、空襲警報の出るたびごとに、必ず築地警察署にかけつけていた。あの晩も(20年3月9日)すぐに飛び起き警察署に向かった。
すでに深川方面は火の海と化して、空は真っ赤である。間もなく築地一帯にも焼夷弾がだいぶ落下して、あっという間に火の町になった。我々団員は懸命に消火につとめたが、人力ではどうにもならない。明け方までには広範囲が焼けたが、さすがに本願寺の建物は残った。私の住む小田原町も一部焼けたが、幸いにして私宅は無事だった。
翌日、本所深川方面は全滅とのニュースを聞き、疲れも忘れて緊張しながらボロ自転車に飛び乗って、現場の状況を視察するために深川方面に向かった。永代橋まで行くと、わずかな荷物を背負った罹災者が、顔は真っ黒、眼は火にあおられたのか赤く細くなった姿で京橋区方面に避難する様子。門前仲町あたりでは、木場方面から都電線路沿いに頭を永代橋方面に向けて、まるで将棋倒しのかっこうで重なりあって焼死体が横たわっている。
その瞬間は眼を見張って驚いたが、少し歩いているうちに、その悲惨さにも馴れてやや落ち着いてきたが、深川不動尊の前あたりは特にひどかった。最も印象に残ったのは、幼児を抱きしめたまま死んでいる哀れな姿で、髪の毛なども焼けてしまい男女の区別もつかなかった。いま思うとデパートにあるマネキン人形の裸体が並んで倒れているような感じである。そしてあの時10万人からの焼死者が出たのかと思うと未だにぞっとする。
それから数日後まで、隅田川には毎日のように死体が流れてきた。私は築地魚市場の河岸にある事務所に勤務していたので、この哀れな姿を見る機会が多いのである。魚を揚げる桟橋には、誰が揚げるともなく、死体の数が増してきた。今は故人になったが、当時50歳位だった同じ職場の今関さんが、毎日家から線香を持ってきてあげていた。その死体を片付ける人もなく、何日かそのままになり、ついにはなるべく揚げないようになってしまった。死体の処置はたぶん3月の末頃までかかったと思う。

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