掲載日:2023年1月18日

ページID:745

ここから本文です。

「商売では食べていけなかった時代」 島田 立一(しまだ りゅういち)

戦争当時の私は30代の働き盛りで、家業の履物商を父とともに営んでいました。

昭和16年頃から戦時色が強くなってきて、まず米穀が統制され、配給制になりました。次いで砂糖、味噌も切符制になり、最終的にはすべての商品に公定価格が設定され、それ以上の価格で売ると、闇行為として経済警察に引っ張られるはめとなる状況を迎えたのです。履物も統制が敷かれ、利益を出すことができず、実質、商いは成立しなくなり、企業整理といって、廃業あるいは転業するものに対して、同業者が金を集めて送りました。仮に1,000軒以上あった家の半数以上がやめたとすると、その都度なみだ金を出すのです。その額は事業規模によって異なりました。履物業者にもクラスがあり、特級が1、2、3級、1級から18級まで22クラスあり、それは過去3年間の物品税、営業税から決められていました。私の店は2,000軒中、18位(2級)だったのです。

父は東京履物組合の理事長を昭和15年から47年までの32年間務めましたが、その組合を通じて、戦時色が強まった17年に「履物商も勤労奉仕せよ」との命が下り、私は1番最初に江東区北砂町の鋳物工場、次いで日本橋郵便局へ勤労奉仕に行くことになりました。

郵便局での勤務は年齢によって3階級あり、20代~30代は電報配達、30代~40代の壮年は開函業務で、私はこの業務に就きました。朝8時に局へ出局し、9時きっかりに第1号便といって、兜町、茅場町、新川、越前堀、北新堀、南新堀、箱崎町、浜町、人形町、小網町、小舟町の11か所に31本あるポストの開函のため大きな袋を持って自転車で行きました。これは本職の人なら31本を45分で回って来るのですが、不慣れな私たち勤労奉仕の者は1時間かかってしまいます。ところが2号便が10時、3号便が11時に出るものですから、本職の人はその間15分の休憩がとれるのですが、我々素人は1分の休みもとれないのです。午後は1時から、赤塗の郵便自動車の助手席に乗って、今の31本を集めながら、さらに私の回っている31本の中に特定郵便局が3つ4つあり、そこへ行って白コウの速達便、赤コウの書留便それぞれの大きな包みを引きずって行って放り込むのです。そして1時間休憩して、3時からまた第2便を出すのです。これを半年間奉仕しました。もちろん奉仕ですから、一切の給料も食事も出ません。ある日、仕事中に大雨にあい、全身びしょ濡れになりましたが、ハガキを濡らしてはいけないと思い鞄を大事に保護したところ、翌日局長に呼ばれ、お褒めの言葉を頂戴した思い出もあります。お国のため、と必死だったのでしょう。
その他に昭和14年には警察単位で結成された警防団の班長も務めていましたので、履物商と警防団の班長、そして勤労奉仕と1人3役をこなして来たわけです。その頃、家業の履物商は統制で配給制に代っており、その配給は月に1~2回程度でその都度300~500足の品物が来ると、鼻緒を締め、配給しました。商売では食べて行けなくなっていた時代でした。

昭和18年頃になると、町会単位で翼賛壮年団が結成され、それは家庭にある金属の回収を行う奉仕で、そこでも班長を務め、月に数回、各家庭を回っては、やかんから始まって全ての金属を回収しました。これは戦争が終わるまで務めました。同じく18年頃から空襲が激しくなってきて、警防団の仕事も多忙になり、私は本団(現在の久松警察署)へ転属となり、本団の隣組指導係副部長という役職を得ました。

私は、昭和16年頃から徴用令状を3回受けましたが、久松警防団の幹部ということで、逃れることができました。

しかし、それもいつまでも逃れていられない状態になってきて、徴用はとんでもない所に送られるのです。

例えば、川崎の日本鋼管や立川の中島飛行機など、軍需工場へ行かされるのです。そのため、警防団に話して、警防団のお世話で東京都内にある汽車製造(株)東京工場(旧城東区)に昭和17年の10月に入社しました。

しかし、仮に空襲警報が出た場合は、すぐに警防団に移ることになっていました。これが月に何度かあったのです。汽車製造の月給は100円~130円程度でした。ただ、汽車製造(株)も、私が入社した頃に、軍需工場に指定されました。

この頃は家業の履物商、警防団、翼賛壮年団、汽車製造勤務と、1人4役をこなすようになっていました。

昭和20年3月9日の東京大空襲間近になって、汽車製造(株)でも泊まり番をっくり、工場を警備することになりました。

その係が1週間に1度の割合で回ってくるのですが、たまたま私の場合は3月9日に当たっていたため、警防団には欠勤届けを出していました。

ところが、私の同僚の金子さんが3月8日に奥さんが疎開先から訪ねて来るので、9日と当番を代ってくれないか、ということで軽い気持ちで代ってあげたのです。ところが、その大空襲で勤め先の汽車製造(株)が空襲に遇い、3月9日に泊まり番を務めた金子さんは亡くなってしまいました。

こうして、私は運よく死を免れることになったのですが、金子氏からの依頼とは言え、私に代って死んだ金子氏のことを思うと胸が痛みます。今日、私が生きていられるのが実に不思議だと思います。

その後、昭和20年4月には臨時召集令状をもらい、東部軍管区17部隊へ入隊、6月には熊本軍管区67部隊へ転属となり、終戦を迎えるのですが、その間、何度かさまざまな死線を越えました。

終戦を迎えた時、配属になっていた熊本軍管区67部隊は熊本城の中に場所を構えていたのですが、8月9日の長崎に原爆が投下された日は、午前中から警報が出ていたので、私たちは演習を中止していました。

お城はちょうど上野の山ほどの小高い所に位置していたので街が見下ろせ、また、はるか彼方に雲仙岳が見えるのですが、その雲仙岳の真上へ、あのきのこ雲が上がってきたのです。日本晴れの青空の中へぽっかり浮かんでいました。

その時は、新型の爆弾だと思いました。その白い煙の下にピンク色のモヤのようなものが漂っていました。その時のことを思うと、実に辛いものがあります。

あのきのこ雲の下で、大勢の人が被爆し、そして45年の歳月が流れた今日でも苦しんでいる人がいると思うと、戦争はすべきでないと思います。ただ、今思うと、その頃の体験が今に生かされていることも事実です。

1人3~4役をこなし、厳しい訓練に耐え抜いてきた私は、今84歳4か月。中央区老人会連盟日本橋明生倶楽部(会員100名)の役員として奉仕活動を行っています。こうして健康でいられるのは、戦時中の厳しい訓練に耐え抜いてきたからだと、つくづく思うのです。

より良いウェブサイトにするためにみなさまのご意見をお聞かせください

このページの情報は役に立ちましたか?

このページの情報は見つけやすかったですか?

同じカテゴリから探す

こちらのページも読まれています

 

中央区トップページ > 区政情報 > 構想・計画・施策 > 平和事業の推進 > 平和祈念バーチャルミュージアム > 資料室 > 体験記 > 「商売では食べていけなかった時代」島田立一(しまだりゅういち)