掲載日:2023年1月18日

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「思い出すままに」 丸山 嘉一郎(まるやま かいちろう)

銀座通り、明治屋・服部のP.X.には進駐軍等がたむろしている頃でした。私は戦災にて家を焼かれ、京橋際交番に自転車共同作業所の父と住んでいました。横の窓から京橋川に釣り糸を垂れると、ボラの子オボコが釣れました。当時は、交番横の共同便所の排水が川に流れ出ていました。そこに都鳥が集まり、魚もよく釣れました。スズキの子セイゴはさすがに水質の汚れのせいか、京橋区役所のところの三吉橋辺りまでしか上って来なかったようです。昔は川の汚染に関心がなく、川は1間流れれば、その水は飲めるというくらいですから、運河のような都心の川でも流れていれば、魚は当然食べられると思っていたようでした(いや、それほど食糧に困ってなんでも食べた)。
交番にいた頃の食事は、焼け野原の中ですのでカボチャだけ、馬糧の四角く圧縮した20cm四方で厚さが10cmくらいになっている麦、時々藁が混ざっていた、それを崩してお粥にして食べたのは良い方だった。
双子の可愛い女の子、青い目をしたGIに声をかけられてチョコレートを1枚ずつこわごわ貰う、いま思うとハーシーの板チョコと思いますが、当時、甘いものなどとても貴重品であったし、我々には昔から飴以上の菓子と知っていたが、その子たちは、1口食べてその苦味に思わず「さつま芋が食いてえ」と甘薯をねだっていた。今のホテル(ホテル西洋銀座)は空地であったと思う。使えない自転車を並べて、それから部品を取って修理していた。
私の家が焼ける時、銀座は3月6日で一丁目、二丁目辺りは焼け野原になっていた。5月26日夜の空襲でB29は超低空飛行で2階から見ていると片倉ビルの屋根一杯に翼を拡げ、しかもその羽根、胴体全部が、八丁堀、深川が燃えている赤い炎の色を映して真っ赤な飛行機となって頭上を次から次へと飛び去っていった。
斜め右側の奥の方から徐々に燃えて来た炎が仲通りの日本評論社、色部氷室を嘗め始め、炎が高く上がって来ると、12m幅の仲通りも熱くて、反対側にある江間洋服店、荒木油店、八百直、長沢印刷所、大和屋、伊勢藤、成島玉子店と並ぶ家に寄り添うようにして見守っていた。私の家の前は京南鉄道のモルタル塗りの2階建てなので未だ火がつかずに健在でした。
火勢はますます強くなり、炎も高く上がった時でした、長沢印刷所の窓格子にちらっと小さな炎が出たと思ったら、見る間に大きくなって来ました。高温から木に自然発火するさまを目の当たりに初めて見たことは、今もありあり目に残っております。

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