掲載日:2023年1月18日

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「人形町から宮城前広場へ 3月10日朝の明治座」 有田 芳男(ありた よしお)

人形町から宮城前広場へ

昭和19年11月1日マリアナ諸島サイパン島から発進したB29は東京初偵察を行った。以後再三にわたる空襲警報が東京の空に昼となく夜となく鳴り響くようになった。日本各地にも偵察のB29が高々度で進入したり、九州西部の空襲は中国を基地とするB29が5機、10機と飛来してきた。昭和19年11月29日には東京に初めての夜間空襲があって隣接の小舟町、茅場町、兜町などが被害を受けている。昭和19年12月に入ると空襲が頻繁になり、大森、豊島、江戸川の各地をはじめ浅草、本所、下谷方面の隅田川沿いの町々に焼夷弾爆撃が続いた。
昭和20年1月、2月になると日本各地の主要都市や軍事施設が攻撃の目標になり、東京の各所でも爆撃の回数が増していった。
2月9日、10日、25日と東京ではたて続けに大きな空襲があり、特に2月25日の雪の降っていた午後には隣接の町内が大きな被害を受けた。富沢町、久松町、村松町から堀留、大伝馬町、小伝馬町などが無惨な姿に変わっていた。あくる日には大勢の人達が無言で焼け跡の整理をされており、なぜか女性の方が多く立ち働いている姿が印象的であった。この焼跡を見た私は、自分達は家族も無事でそれぞれ各人の生活を果たせてはいるが、明日は我が身かなどと考えて身の引き締まる思いであった。

学校報国隊

当時私は本所にある旧制の中学3年生であった。2学期から教練のみで授業は休学となり、昭和19年9月から厩橋にある軍需工場に勤労動員として勤務することになった。これは国が一方的に決めた措置にしても、当時の中学生は何の抵抗もなくお国の為と納得していた。工場に動員されているかたわら昭和19年12月からは、学校報国隊防空補助員として厩橋警察署に配属され、空襲警報が発令されると厩橋警察署に出動して警察官の補助員として働かなければならなかった。若い警察官のいない当時としては、私達中学生も警察活動に協力した。緊急出動のため、省線(JR)、都電、バスは証明書を見せてフリーパスであった。
昭和20年に入ってからは正月どころではなく、警察署にすぐ出動できるようにズボンにゲートルを巻いて就寝しなくてはならなくなり、枕元には手探りでも身支度が出来るように総てのものを用意しておく習慣になっていた。

東京大空襲

昭和20年3月9日、10日の、後に東京大空襲と呼ばれる最大の空襲で私たちも焼け出されてしまった。この夜は蛎殼町四丁目の私たちの家には5人家族のうち、兄(26歳)は何処に行っているのか定かではないが出征しておらず、父、母、姉と私とで我が家を守っていた。
3月9日午後10時30分頃に警戒警報が発令されたが、空襲か警戒解除かの次の警報のサイレンが鳴らされないでいた。後で考えてみるといつもの状況とはどこか違っていた。突如として空襲警報が発令となる。飛び起きて身支度をしているうちに、早くも聞き慣れているB29の爆音が頭上から聞こえてくる。向こう三軒両隣で造った防空壕に母、姉と急ぐ。厩橋警察に行くどころではなくなってしまった。当時隣の料亭には陸軍大尉の軍人さんがいた。彼はおかみさんの弟さんで大本営に勤務されており、姉の家を宿舎として使っていた。夜勤以外には必ず宿泊しておられ隣組の人たちは心強く思っていた。大尉さんと父で避難する相談をしている。「今夜の空襲は本格的で、ここにいては危険ですので姉も連れて逃げて下さい」との事であった。空を見上げると南の辰巳方面から箱崎、蛎殼町の上空を通って浜町、両国方面にB29が飛んで行く。夜目にも真新しいジュラルミンの機体がサーチライトに照らされてよく見える。また火災で炎上している炎が反射して見えるのか、赤い悪魔のように飛んでいた。10機、15機編隊のB29は翼を接するように北の夜空へ向かっている。そのうち火の粉が機体から降るように焼夷弾が投下されるのも見えた。このようにB29が間近に見えるのはいかに低空を飛んでいたかである。正確に目標を捕えられる超低空を飛ぶ敵機に対し、反撃の様子などない我が軍がはがゆくてならない。無念さと悔しさがいっぱいだった事が思い出される。
浜町方面から逃げてきた知り合いの人が、「オジサン、家にも落ちて燃え出したよ」と通りすがりに父に声を掛けていった。父と母は関東大震災の時に日比谷公園から宮城へ避難して助かった経験から「今夜は宮城まで行こう。だめだったら品川から東京を出よう」と決めていたらしい。ドアを開けて外へ出ようとすると、家の中から軽い物が飛び出すように吹き出して行った。ものすごい風が出てきて家の中を吹き抜けていく。午前1時頃になっていたか、火が風を呼んで強風が町中を吹き荒れている。火は近くまできているのか・・・・・。隣の大尉さんに頼まれたおかみさんを入れて総勢5人が未だ火も入っていない家をあとにして宮城を目指して人形町を出発した。それぞれの人たちは自分に必要な物を持ち、私は自転車の荷台に教科書をはじめ学校で必要な物を入れたカバンを2つ下げて出た。
町内は逃げまどう人たちで騒然としている。両国から浜町、また隣町の浪花町あたりまで燃えて来たのだろうか大勢が逃げてくる。水天宮交差点を避難する人たちと共に鎧橋から兜町に向かう。強風はこのあたりでも吹き荒れて大通りの街路樹を倒さんばかりであった。
馬場先門では、電車通りの左側のビルがバリバリと火災特有の不気味な音を立てて燃え上がっていた。定かではないが午前2時か、3時頃だったか、東京都庁舎が燃えているのだった。各階の窓から炎が吹き出し、焼け崩れている上階部分が大音響で落下してくる。反対側の歩道を歩いている私たちに、電車通りを越してものすごい熱さが伝わってきた。巻き上がる風に乗って炎が空高く、また地を這うようにこちら側にも届いていた。私たちはしゃにむに駆け出した。交差点の三菱銀行角まで行き着いて難を逃れる事ができた。互いに顔を見合わせ確認できた時の安堵感と喜びは忘れられない。燃えている都庁の前には消防車の影も見えず、ただ焼けるにまかせているのだった。ようやくの思いでたどり着いて濠端の電車通りを渡ろうとすると、憲兵をはじめ兵隊や警官に行く手をさえぎられた。宮城前の広場には避難する人たちが殺到して大混乱をまねかないように誰一人として入ることができなかった。私たち5人の他に徐々に集まって来た40~50人程の人たちは、馬場先門の明治生命の角でうろうろするばかりであった。途方に暮れている私たちに声が掛けられた。明治生命ビルを警備されている会社の責任者の人であった。「この会社は御存知のように金融機関のビルですので1階以上の各部屋にはお入れ出来ませんが、拝見しておりますと皆さんお困りのご様子ですので、地下室の廊下ならば暖房も入っておりますので如何ですか」というお話である。40~50人の人たちは誘導されて地下室に案内され、やっと人ごこちがついた思いだった。廊下とは言え明々と電気がつき、暖かくなっており、リノリュームの床はきれいに手入れが出来ていた。両側の壁に背をもたれて座った。火に追われた2時間あまりの強行軍で、母などは本当に疲れているのか目を閉じて話もできないようであった。
どのくらいの時間が過ぎたのだろうか。皆の安全が確保されて落ち着いてみると、火に追われはしたが未だ焼けるのを見届けてはいない人形町の家が心配になってきた。地下から階段を登って地上に出てみる。ビルの谷間の空は薄明るく濃紺に色づき夜明けが近づいている。あの大風も止み、都庁の火災もおさまったのか京橋方面も早朝の静寂がもどっている。地下室への階段を駆け降り、自分だけ自転車で先に帰って家を見に行く事を皆に告げ、直ちに出発した。
帰り道は最短距離で我が家に向かった。焼けてしまった東京駅を見ながら国鉄本社前を右にガードをくぐった。呉服橋を渡って日本橋の交差点を左に曲がる。この辺りまでの両側は何の被害も受けてはいない。日本橋を渡って右折すれば江戸橋の交差点だ。前方に見える三叉路の突き当たりが小網町、蛎殻町の方に右に曲がりながら左右を見るが、このあたりも被害がなく見慣れた町並みが目に映ってきた。これでは家の一角は焼けていないのではないか、なんとか残っているのではないかと願いながら人形町通りまで来た。ここの両側もそのままの姿で残っていた。早朝とは思えない人通りでもあった。いよいよ意を強くして甘酒横丁を浜町方面に進むと同時に、突如として前面が大きく開けてきた。180度も展望できる焼け野原が目に飛び込んできた。やっぱり私たちの家は焼けてしまっていた。

3月10日朝の明治座

朝6時半頃だったろうか、元蛎殼町四丁目(人形町二丁目)の家の焼跡に父と2人で立っていると、2人の警防団員が急ぎ足で近づいて来た。私たちの家の隣に住んでいる永田外次郎さんという洋服屋さんを探しているのだった。以下は2人の警防団員の話を詳しくのせてみる事にする。
永田さんと同じ団員数名は浜町方面で空襲火災の消火活動に従事していた。しかし数か所だった出火場所が、時間が過ぎて気が付いてみると火に囲まれてしまっていた。止むを得ず消防車を捨てて避難所になっていた明治座に永田さんと3人で入った。
当時、明治座は浜町方面の人たちの避難先であったが、誰でも入れるわけではなかった。非戦闘員である子供、女性、老人、怪我人、病人などの人たちが入館していたと聞いている。
明治座に入った3人の警防団員は館内の避難状況を1階から2階へと見て歩いているうちに、楽屋から燃えだした火と煙がいっせいに2階の廊下へと移ってきた。火と煙のまわりがあまりにも速く、3人は2階の窓から脱出して再び外に出る事になった。2階に避難していた人たちはまわりの速い煙に依ってパニック状態になってきた。3人の警防団員は2階の窓から正面玄関の屋根づたいに人を降ろす脱出を手伝いつつ、自分たちも外へ出る事ができた。劇場外は強風が吹きすさび、看板は飛び、街路樹はなぎ倒され、火のついた木片や真赤に焼けて溶けそうになっている卜タンが飛び廻っていた。すでに燃え盛っている周辺の家々の火と明治座からの火が、広い舗装道路(金座通り)を突風にのって這うように渡っていた。外に出られても、この状態だったために永田さんとはぐれてしまった2人は、なにしろ明治座から離れようとつとめていた。金座通りを渡って人形町方面へ逃げるのだが、立って歩く事などできず、火をよけながら、また飛んで来るものを避けながら道路を腹這いながら渡る事ができた。
話し終わった警防団員を私と父は永田さんの奥さんが避難している家に案内した。しかし永田さんは帰って来てはいなかった。
早速、明治座に行って永田さんの安否を確かめようと警防団の2人と父は出掛ける事になり、私もあとから付いて行った。
焼け野原になった浜町方面に見える明治座は、外壁はそのままでも内部は全焼しており、無残な姿に変わっていた。蛎浜橋を渡って金座通りまで来て愕然と立ちすくんでしまった。
広い道路上に10数人の焼死体が頭をこちらに向けて倒れている。
少しでも明治座から離れようとしたのか、這うようにうつ伏せに倒れている人たちであった。この大通りを火焔が渡っていたという証言どおりで、その時の惨状の程を伺い知る事ができた。
焼けただれた残土をふみ越えて行くと、明治座の正面入口のところに付いていた縦長のガラスのドアが、鉄枠だけを残して並んでいた。
警防団員の2人が、さきほど窓から脱出した2階へ行って永田さんを探すために、父とともに3人で明治座に入って行った。
焼けただれて枠だけになったドア越しに玄関の中をのぞくと、ここまで逃げて来て倒れたのか、数人の焼死体があった。正面の客席に通じる数段の階段にも、手すりにもたれるように遺体が並んで見えている。階段に座って避難していた人達は充満した煙で倒れ、そのうちに襲ってきた火による犠牲者であろうか。私も階段の下まで入ってみたが、それ以上は薄暗いことと恐ろしさで昇って行く事はできなかった。
30分も過ぎたろうか、父親たちが2階から降りて来た。昨夜脱出した場所にも数人の焼死体があったので永田さんを探したが、見極める事が出来ずに、むなしく帰って来たのだった。
私たちが玄関から出ようとすると、今しがた到着したのか、数人の兵隊が劇場外の警備に就こうとしている。兵隊の1人は私たちが生き残って今出て来たのかと思ったのか、場内の様子を矢継早に質問してきた。警防団員の2人は、昨夜からの奮闘で真黒な顔をしており、間違われるのも無理はなかった。
明治座の植込みの中で、1人の憲兵と数人の兵隊が大きな声を出していた。そこにはうずくまっていて今にも倒れそうになっている人がいる。衣類はほとんど黒く焦げており、ボロボロになった服が房のように体にまつわり付いでいるだけである。
真黒い顔の中で声を出す時だけ、赤い口が動くという大怪我の人は、憲兵から焼けた時の明治座の状態をいろいろと聞かれている。話はとぎれとぎれに続いているようだが、消え入るようになって言葉にならなくなる。背中を叩かれると、また話し出すという状況が15分程続けられていた。
明治座の近くにある当時の浜町公園は、周囲に高い板塀をめぐらした高射砲の陣地で、高射砲の隊と気球をあげる隊が駐屯していた。公園まで逃げられれば助かると思ってか、明治座から脱出できた人たちには、植込みを越えて板塀にたどり着いた人もいたし、また植込みの中で力尽きた人もいた、と後になって話を聞いた事がある。
明治座周辺で亡くなられた数十体の遺体の収容作業は10時頃になって始められた。兵隊と棺桶を満載した軍のトラック5、6台が明治座前に並んだ。棺に納める作業は外で亡くなられた遺体から始められ、劇場内に作業が移っていったが、数台分の棺では足らなくなっていった。その後は”焼けトタン”が集められた。1遺体ずつ収容していたが、それでも間に合わず1枚のトタンに2、3遺体が納められトラックに積まれていった。
これも後になっての話に依ると、小伝馬町の十思小学校の裏の公園に遺体が並べられ、遺族による確認作業があった事と伺っている。
永田外次郎さんの遺体もこの中にあったのだろうが、家族の人たちにはこれと確かめる事はできなかったとの事であった。
町内の1警防団員であった永田さんは、戦後になって特別消防員に任命されており、また「空襲火災により第2中隊第2小隊に属し、浜町二丁目明治座前で火災防御中死亡」という功績で警察賞与を贈られている。そして日本橋消防署殉職者として追悼もされている。
浜町公園に通じる明治座前の植込みは、現在でもあの時のままに残っている。銀杏並木が秋になると、黄色に彩られ美しい散歩道になっている。このあたりを行き交っている私たち住人は45年前の悲劇を忘れる事はできない。しかし半世紀にもなる歳月とともに、あの感慨もとかく薄れがちになろうとしている。幾多の霊はいま関係者の人たちによって明治観音として植込みの入口に篤く祀られている。
御冥福をお祈りいたします。合掌

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