掲載日:2023年1月18日

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「雨の日は裸足で通学」 本間 俊子(ほんま としこ)

昭和19年の夏でした。私たち6年生の女子と3年生の女子、4年生の男子は埼玉県足立郡片柳村(現:大宮市)の万年寺へ疎開しました。今でこそ大宮はすぐそこですが、あの頃は子供だったことも手伝って、はるかかなたへ行ったような気持ちでした。それでも遠足に行くような、何となく嬉しい気持ちで出発したことを憶えています。
片柳村はお芋の産地でしたから、大きなザルに蒸したお芋が一杯盛られて本堂に置いてありました。「どうぞ好きなだけ食べてください」と言われたのですが、東京ではみたことがないほど大量のお芋でしたので初めはびっくりして手が出せなかったのですが、1つ食べるとホクホクしてとても美味しいのです。夢中になって食べ、すぐになくなりました。
お腹が空いてしょうがない、というようなこともなく、確かにご飯にお芋や麦がまじっていたことの方が多かったようですが、白いご飯も食べられました。疎開先ではどんぶりが食器で、1回に量は一杯入れることができるのですが、女の子はどんぶりの線より下までしか入れてもらえませんでした。それでも男の子がガツガツ食べるのをみて可哀想になり、自分たちのどんぶりのご飯を少し削って分けてあげたりしたことはあります。やんちゃ盛りの男の子には足りなかったのかもしれません。6年生の女子は3年生の女子や4年生の男子の衣類の繕いものをしたりして、たいそうお姉さんぶっていたと思います。
疎開生活の後半になって、風邪をひいたり、お腹をこわした子供には真っ白いお粥に梅干しを添えた食事が出されるのですが、毎日芋や麦の混じった雑炊を食べている私たちにとっては、それが食べたくて「病気になりたいね」なんて羨ましく思ったことがありました。
大宮周辺の空襲が激しくなってくると、山の洞穴へ防空壕を掘って、防空頭巾を持ってそこへ避難したりしました。機銃掃射などもけっこう受けました。避難訓練というよりも、実際に避難することが多かったようです。
東京方面の空が空襲で真っ赤になったのを見たり、疎開児童の中には、実際に自分の親が機銃掃射に遇い亡くなった子がいました。その子が疎開中に1度東京へ戻り、罹災現場を見てきた話をすると、皆、目を皿のようにして聞き入り、感傷的になり、その晩はふとんを被ってワァワァ泣いたこともありました。でも、疎開中は大勢と一緒だとそういう寂しさも忘れるのでしょうか、悲壮感はあまりなかったようです。先生方もよく気を配ってくださり、おばけ大会を催したり、いろんな慰問の人を呼んで、子供たちが寂しくならないように趣向を凝らして楽しませてくださいました。ですから、親が恋しかったという記憶はありません。特に女の先生はお母さん代りになってくださったんだと思います。夜はよく奇術師さんを東京から呼んでくださり、手品とか腹話術を見せてくださいました。地元の子供も呼んで、一緒に見せてあげたようです。
当時は馬を引いて歩いている人が多く、とにかく道には馬糞がよく落ちていました。村の片柳国民学校まで歩いて通学しました。雨の日の通学は、運動靴がもったいないからと、裸足で登校させられましたが、都会の子はその馬糞が踏めないのです。それを見ていた地元の子がおもしろがって、「こっちに来ると馬糞がないよ」と言うので行くと、一杯あるんです。皆「ギャーッ」と悲鳴を上げていましたが、そういうふうにからかわれた経験は今も懐かしい思い出です。

また、掃除や風呂焚き、洗濯や食事の後片付けは当番制で行いましたし、大根やじゃが芋の皮むきなどいろいろなお手伝いもしましたので、「何でもできる」という自信はついたようです。戦争は確かに嫌だったけれど、このような貴重な経験はあのような時代でなければできません。あの体験から学んだものは「物を大切に」ということでした。今の人たちのようにポイポイと捨てることがどうしてもできないのです。
戦後45年、時間がたち過ぎました。平和なので、全ていい思い出になりすぎたようです。それでも戦争はやはり嫌です。

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