掲載日:2023年1月18日

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「人間、孤立していてはだめ」 伊藤 謙徳(いとう かねのり)

久松国民学校は全部で7つの寺院へ集団疎開しました。それらのお寺は東北本線と高崎線の大宮寄りの各駅周辺にありました。寺院は埼玉県北足立郡加納村(現:桶川市)の医王院、本学院、光照寺、桶川町の知足院、伊奈村(現:伊奈町)の法光寺、北本宿町(現北本市)の寿命院、多門寺で、私の寮は法光寺で、6年生男子52名を預かって、女性の訓導の根本先生、寮母さんの二宮さん、食事や買い出しなどの世話をしていただいた笠原さんと青木さん、藤野さんの計6名でした。
疎開児童52名という数は久松国民学校において最大の大所帯。それだけに食糧には苦労しました。食費は公費から出ますが、何と言っても食べ盛りの6年生の男の子を預かって、1人当りの食費は4年生の子と同じでは足りません。私の俸給が蓮田の埼玉銀行に振り込まれるのですが、埼玉銀行の支店長だけが察知しました。「先生、ご家族に送金しないんですか」と聞かれました。
私の家族は、当時、千葉の実家に預けていましたが、どうしてそのようなことを聞くのかと支店長に尋ねますと、「他の先生は俸給から家族へ送金するのに、先生は1回も送らない。しかも、少しずつ下ろしに来る。結局学寮に使っているんじやないですか」と言われました。公費だけでは子供のお腹を満たすことはできません。自分の俸給を全部つぎこんでも、それでも足りませんでした。
それでも経費の面では恵まれた点がありました。伊奈村に野菜の出荷組合があり、疎開地へ行くや否や、村の助役さんの助言でそこの組合長へ「子供たちの野菜だけでも何とか回してもらえないでしょうか」とお願いに行きました。組合長さんがいい方で、快く了解してくれました。だから野菜は割合に出荷値段で、まとめて買うことができました。時には他の学寮にも分けられました。

もう1つ助かったのが、あの辺りはさつま芋の生産地になっていて、当時、農協はさつま芋を買い集めて軍のアルコール原料にしていましたが、それを学童の間食用にとお願いしたら、これも気持ちよく引き受けてくれました。但し、この芋はアルコール原料用なので、食べてみると水っぽくてさっぱり甘くなく、美味しくありません。
私自身の仕事は授業の他に、このような買い出しに奔走することでした。午前中は村の国民学校を借りて授業を行い、午後は寺へ帰り、学童は女性の根本先生に勉強を習います。私は買い出しに行きました。当時、桶川や北本でも同じだったと思いますが、日曜日になると駅から買い出しの行列が続きました。
一般には物々交換でした。その被害をもろに被ったのは集団疎開で、お金で物を買えないと言ってもお金しかないのですから。さつま芋もアルコール原料の芋であれば、お金でいくらでも売ってくれますが、美味しくないので次第に子供たちも食べなくなります。土地の人たちが食べている普通の美味しい川越芋が欲しいわけです。そのため、どうしても物々交換しか手がないわけです。幸いなことに久松国民学校というのは、父兄が繊維問屋を営んでいる家が多いので、皆が欲しがっている繊維の半端物を売ってもらっては食糧に替えていました。
このように、野菜には一応恵まれ、米、塩味噌なども配給で何とか手に入れることができました。しかし、タンパク源の確保には苦労しました。秋には、児童たちに毎朝、イナゴの動きが活発にならないうちにイナゴ獲りをさせ、それを蒸して佃煮にしました。もう1つは植物性タンパク質の大豆を食べさせようとしましたら、村は大豆が獲れないところでした。なぜなら、あのあたりは関東平野特有の関東ローム層に覆われて、その層が厚い場所なのです。そのため多分豆類を育てる根粒バクテリアが育たないのだと思います。

疎開生活も後半になると、村の人たちとも仲良くなって、おやつのさつま芋などはそう不自由なく買えました。私が集団疎開で村へ入った時は、とにかく村の人たちと融和し、溶け込まない以上、これだけの子供たちを抱えてやっていけないと思っていました。ですから、あらゆる方法で村の人たちと交流しました。
村の人たちとの交流には、決定的なことがありました。学寮には風呂が2っありましたが、葦簾で囲った程度のもので、冬は寒くてたまらないのです。燃料の薪もなかなか手に入りません。雑木林はありますが、それは村にとっても貴重な材料なのです。
そこで、「農家のお風呂の水汲みと風呂焚きを学童にさせて下さい。その代わり、最後のお湯で結構ですから、子供たちもお風呂に入れさせてくれませんか」と部落長に頼みました。快く了解してくれまして、1軒の家に3人くらいずつ、夕飯前の5時~6時頃風呂焚きに行かせて、そして家の人が入り終わった8時~9時頃にもらい湯に行きました。そうしますと子供たちとその家の人たちとの間に深い絆ができました。
その前からも、息子さんが出征している家を中心に、畑の草むしりの手伝いをさせてもらったこともあります。このようにして村に溶け込まないと疎開生活は出来ないと思いました。やはり穀潰しと言われてはだめです。村は初めから好意的でありましたが、そのもらい湯をきっかけに非常に親密になりました。当時の学童たちは、今でもその家とお付き合いしているものが多いようです。

子供たちの勉強は、伊奈国民学校の講堂を借りて午前中だけそこで行いました。久松国民学校から机や椅子を運びました。
疎開して間もない頃は、地元の子供たちと疎開の子供たちには接触がないため、時々村の子供たちにいじめられました。休憩時間などに囲まれて「やーい疎開っ子」とか「青白いっ子」とか言われました。子供たちには当初から「そういうことはあるだろうけれど、気にするな」と言っておきましたので、私に言いに来る子供はそれほどいませんでしたが、それでも時には「先生、やっぱり気持ち悪いや、やだなあ、喧嘩してみようかな」と言う子供もおりました。そこで、当時の授業の中で剣道と柔道を指導しておりましたので、地元の校長先生にお願いして、運動会に疎開児童も参加させてもらい、柔剣道の型を披露しました。それによって「疎開の子は強い」という印象ができたのか、次第にいじめのようなことはなくなりました。
失敗した例としては、父兄の面会のことです。父兄には、その時におやつは持参しないようにとお願いしてありましたが、それでもこっそりと持って来るのです。ところが、父兄が持って来たおやつを食べた子の多くは、翌日下痢をします。私の考えでは、食べ過ぎだと思います。寮の食事は決して欠乏しているとは思えないのですが、子供にとっては食べているけど満腹感がないのでしょう。ですから持って来られれば、つい自分の許容量を超えてしまうようでした。
面会は父兄間で相談して輪番制であったようで、面会日の当番の人に自分の子への土産を預けて、親も子供が寂しくないように配慮したようです。
面会については教師は関与しませんでしたが、さすがに6年生にもなると、親へ心配させないようにと気配りがありました。疎開中に「法光だより」という新聞を出して、親へも配布しましたが、苦しいこともあると思うのに、子供たちが書く文章は自分たちがいかに元気で疎開生活を送っているかという作文が中心でした。子供たちは自分たちよりも東京に残った親たちの方が、もっと苦労しているだろうことをよく知っていたのです。

また、歌集「ふたば」「松並木」なども作ったり、「法光寺学寮々歌」も作りました。もらい湯の帰りなどは暗くて怖いので、その寮歌を大声で歌いながら帰ってきました。当時の6年生は、今の子と比較にならないくらい逞しく、自立心がありましたが、それでも家族と離れて暮すことは辛いことには違いありません。
3月10日の東京大空襲の日には、学寮から東京が燃えているのが見えました。あの日は、ポンポンポンポンと音がするので、皆夜中に起き出してきました。
東京の空が真っ赤になって、その空に薄い煙がからんでいて、煙の中からグーンと姿を現したB29が目の前に上がって来ます。皆で「どこがやられたのだろう、どこだろう」と言い合っていました。
実は、その前に6年生は中学の入試があるため、私たちの班は3月3日に東京へ引き揚げるようにとの指令が出ていました。しかし、東京の空襲がますます激しくなる状況でしたので、帰京をできるだけ延ばそうと思いました。3月20日に都立の各中学校の入試があるので、引き揚げを3月10日にするように、関係各方面に陳情して許可も得ておりました。他の国民学校では指令通りに引き揚げ、空襲に遇ったようです。
10日に引き揚げるというので、その前日から父兄の代表が男性だけで10人くらい迎えに来ていまして、翌日帰るための荷造りをし、その夜は久し振りに子供たちと親子一緒にシラミのいる布団に寝ました。その夜、大空襲があったわけで、東京がどうなっているのか駅へ問い合わせても全くわかりません。仕方がないので、父兄の中に子供の兄がいて、1番若いということで東京の様子を見に行かせることにしました。しかし、キップが買えないので、私が駅まで行って「子供52人の命と父兄10人の命がかかっているので、どうしてもキップが欲しい」と懇願して、ようやく往復のキップを手に入れました。

夜明けと同時に汽車で蓮田を発ちましたが、なかなか帰って来ません。夕方3時頃に帰って来ましたが、一言「何もありません。もうとっても駄目です。何もありません」を繰り返すだけでした。
このままでは子供を東京へ帰そうにも帰るところがありません。第一、親の消息が分からないので、以後、私の東京往復が始まります。
毎朝、おにぎりをたくさん作って自転車に乗って罹災地へ行きました。明治座の前の広い道は死体の山で、自転車を引っ張れないほどでした。会う人、会う人に「このあたりで学童疎開をしている子の親御さんが亡くなった家はありませんか」と尋ねて回りましたが、皆自分のことで精一杯ですから反応は鈍いのです。
けれども私も真剣にならざるを得ません。寺へ帰ってくると、子供たちが私を取り囲んで「家のお父さんはどうでしたか」「家は焼けましたか」と聞くわけですから。「家は全部焼けたよ、何も残ってないよ」とまでは言えますが、「家のお父さん、お母さんは?」と聞かれると返事に窮しました。1人の子に「君の家族は大丈夫だったよ」と言うと、返事をしてもらえなかった他の子は「駄目だったんだ」と当然思います。
ですから「調べが終わるまで何も言えない」と言いました。おおよそ判明したのが、私が自転車で通って4日目あたりでした。東京に行かせた子供の兄さんの一家は結局全滅し、2人だけが残ってしまいましたし、お菓子屋さんのように疎開地にいた子供だけがたった1人残されたという、悲惨な例もありました。

このような状況でしたから、私自身も長男の死に目に会うことができませんでした。昭和19年12月25日に「のぶひこ危篤、すぐ帰れ」という電報を受け取りましたが、発信は2日前の23日。当時は電報さえも、それだけ遅れたのです。ですから、今すぐ帰っても、もう埋葬もすんでいると思いましたし、私も学童の正月料理の世話で忙しい時でした。子供たちに正月らしい食事を少しでも食べさせたいと思い、餅はどうにか村の好意で手に入れましたが、動物性タンパク質も食べさせたいと奔走していた時でした。そのため1日延ばして12月26日に帰りました。1歳の誕生日を迎える少し前でした。本当に辛いものでした。眠れませんでした。電報が打ったその日に配達されていれば、私もすぐに帰ったかもしれないのですが、とにかく正月の用意を村の人に手配しておきながら、私が不在になると今後の信用の問題になると思いました。
子供たちは親と離れて生活していても、泣き言は言いませんでした。いわゆる「耐え忍ぶ」という教育ができていたのでしょう。久松国民学校の疎開先7学寮のうち、1人だけ脱走した子がいたようですが、全般的には日本橋区の各国民学校ともあまりいなかったようです。後に他の区の状況を聞きましたが、結構脱走が多かったようです。もちろん、待遇も疎開先ごとに異なるので、単純には比較できないと思いますが。
日本橋は昔からの問屋街なので、厳しく育てられたといえます。男子は厳重に育てられ、女子は厳重な中にも大事にされました。なぜなら、お店の後を継ぐのは必ずしも「長男」とは限らないのです。店員の中の1番見込のある者に後を継がせ、それに娘を嫁がせる。ですから戦前の問屋街の風習は、女の子が生まれると喜ばれました。そして男の子は、ある年齢になると自分の家を出て、よその店で修業させます。そうしないと重みが出てこないようです。同時に原則的には後を継ぐのではなく、別に店を興させる。そういう教育でした。

女の子も大事にされましたが、教育は厳しいものでした。家事、裁縫、店員との接し方、女将さんとしての大事な仕事であるそろばんなどはしっかり教育されたようです。
また、男の子はいかに大店の子でも、絶対に木綿服以外は着せませんでした。食事は、ある年齢になると必ず店員とー緒に食事をさせました。大店では、旦那さん一家や番頭さんの食事、店員さんの食事すべてが別でした。店員の食事は質素なもので、食べ終わったら自分で洗い、後片付けをしなければなりません。男の子は必ずそれをさせられました。
このような教育でしたから、他の地域よりもかなり筋が通っていたのでしょう。これは日本橋区の特徴と思います。それが直接疎開先での生活に影響したかは定かではありませんが、質素な生活、規律ある生活などは、家にいて、目の当たりにしているわけですから、しっかりしているのも当然だと思いました。掛け軸にはなっていなくても、暗黙のうちに「家訓」というのが家にあったのでしょう。
こうして「耐え忍ぶ」という一貫した教育をされた児童とともに疎開生活を送り、3月3日に「帰京せよ」という当局の命に背き、3月10日まで帰京を延ばした結果、学童自体は罹災を避けることができ、罹災した親御さんの落ち着き先が決まるまで学童を学寮で預りました。
徐々に生徒は家族に引き取られて行き、5月頃には半数以下になり、6年生最後の1人は昭和20年7月になってから退寮したと思います。これは第1回の班で、その後第2班として罹災した子供たち1年生~6年生まで学年混合、総計13名の学童が疎開して来ました。東京で焼け出されて困っている家族から学年を問わず応募させ、20年4月当初は3名、それから1人、2人と増加しましたので、まるで託児所のような状態になりました。そして、戦後昭和21年3月5日に全員が引き揚げました。

このようにして振り返ってみると、大過なく集団疎開を終えられたのは、村の人をはじめとする多くの人に支えられてきたからだと痛感します。やはり人間は孤立していてはだめです。人と交わらなくては、そしてそのために自らが打ち解けていくようにしなければ。地元の人と深い接点を持つ、これが無事に生活できた秘訣でした。児童たちの多くは、いまだにもらい湯をした家と付き合っていて、先日も卒業生の会合がありましたが、そこで「先生、伊奈村の~さんの家に今度、孫ができてねえ」と言ったり、「ご恩を返したい」というように、本当に感心しています。
戦争は多くの悲劇を生みましたし、2度とあってはならないことですが、戦後45年経った今でも、こうして人との繋がりが続いています。他人を思いやる気持ちがありました。今では考えられないことですが。

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