掲載日:2023年1月18日

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「疎開先ではびっくりすることばかり」 小泉 太郎(こいずみ たろう)

成安寺に疎開したのは5年生の時でした。
何しろ、東京では土を見たこともない、田舎を知らない子供ばかりですから、駅からの砂利道を2時間歩かないと着かないという成安寺の生活は、びっくりすることばかりでした。初日からいなごの佃煮が出てきてびっくりしました。
食べ物は、後に他校の話を聞いて、僕たちは恵まれていたのだということを知りましたが、その時は、やはりひもじい思いをしました。生芋や桑の実を食べたり、青梅をかじった後で赤痢になると大騒ぎしたこともありました。初めの頃、米に1割程度混じっていた麦は、後には4割くらいになりましたし、普段は空腹の時が多かったのですが、時々白いご飯も食べられました。
勉強は寺でしましたが、途中から午前中だけとなり、午後は、麦踏み・田植え等の農家の手伝いをしました。その時は、ご飯を腹一杯食べられるし、芋等の土産ももらえました。僕たち疎開児童も田圃を造り、牛を使って米を作りました。その田圃の供出分は、村の人たちが肩代わりしてくれたようで、全部自分たちで食べました。
村の小学校へは、学芸会や運動会、たまに音楽の授業などで行きました。村の子供とは、特に酷い喧嘩はしませんでしたが、それでも女の子のこと等をきっかけに小ぜり合いはよくありました。しかし、疎開児同士はいじめたりしませんでしたし、下級生もいじめませんでした。
まだ子供でしたし、40年以上昔の事ですから、楽しかった事の方が多く残りがちですが、林間学校か臨海学校の延長のような気分だったと思います。
しかし、ノミやシラミに悩まされたり、服はあっても運動靴がなくて、自分で藁草履を作って履いていました。寺ですから読経が終わらないと食事を食べさせてもらえないのも困りました。
疎開によって、同級生の絆は強くなり、未だに「・・・・ちゃん」と呼び合えるし、成安寺や村との交流も続いているのは、本当に良かったと思います。その反面、お互いの絆が強い分だけ親が死ぬなどの不幸があるとより辛いという面もあります。

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