掲載日:2023年1月18日

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「終戦直前の空襲で」 佐藤 廸夫(さとう みちお)

昭和20年の夏、当時私は中学3年生で5月25日の空襲で新橋の自宅を焼け出され、築地一丁目の伯父の家にひとまず世話になっておりました。戦争も末期で都内もあらかた焼けてしまい、大規模な空襲は5月25日を最後になくなり、硫黄島からの戦闘機の来襲と空母からの艦載機の攻撃が多くなりました。

伯父の家の近くには聖路加病院があって、ここはアメリカの建てた病院なので、空襲の時この辺は狙わないから大丈夫と言われていました。夜間の無差別空襲を何度も経験しているので、そんなことがあるものかと思っておりましたが、その故か偶然なのかこの一帯は無事に残ったのです。

「軍国少年」だった私は同世代の若い人と同じで飛行機が好きで、特に開戦になってからは日本をはじめ各国の軍用機に強い関心をもって、南方で捕獲したアメリカのカーチスP40、イギリスのホーカーハリケーンなどが靖国神社の例大祭で境内に展示されると早速出かけて何時間も眺めて飽きませんでした。また、多摩川堤に数千人の中学生を集めての模擬空中戦、これは日本の戦闘機「隼」や双発戦闘機の屠竜などと敵のP40、ブルスターバッファロー、ロッキードハドソンなどと空中戦を見せる、今思うと他愛のないものでしたが、当時は手に汗にぎって眺めたものでした。また銀座の松屋の1階ホールに、本土空襲のB29に馬乗りになって撃墜したという中野伍長の三式戦闘機「飛燕」が展示されると、学校から帰ってすぐ駆けつけ3回も見に行きました。遥か上空を飛ぶ機影を見るだけだったのに、手に触れて見られるのですから感激しました。

8月15日の終戦も間近い暑い日でした。アメリカの空母が関東近海にあって、その艦載機が京浜地区を跳梁していて、朝から空襲警報が出ていて、時折敵機がわが物顔で飛んできました。もしかすると敵機が見られるかと期待して、母親の制止もきかず、屋根の上の物干し台の手すりに足をかけ、竿かけにつかまって、いつ来るのかと見張っていました。8月の炎天の下、パンツ1枚の裸で流れる汗を首に巻いた手拭いで拭きながら1時間以上経ったころ、突然爆音が聞こえて、築地警察署の方から超低空で1機こちらに向かって飛んで来ました。高度は5、6階のビルくらいの高さで、大小のビルが林立する今と違って当時はほとんど2階か3階建てで、屋根の物干し台から随分遠くまで見渡すことができたのです。
前から見ると特徴のある逆ガル型の翼で、すぐヴォートシコルスキーF4Uコルセア艦上戦闘機とわかりましたが、実戦でこのくらい間近に迫ってくるのを見るのは初めて、驚く間もなく翼の下に1発残っていたロケット弾が発射されました。思わず「やられた」と思いましたが、今まで空襲の時B29から焼夷弾を落とすのを見たのと違って、この白い鉛筆のようなロケット弾はほとんど水平に頭上をかすめて直進していきました。前を横切って飛び去る暗緑色のコルセアの操縦席にパイロットの横顔も見えました。
敵機を見つけてロケット弾が発射されて頭上を飛び去るまで、せいぜい4、5秒の時間でした。その数秒後に、大きな爆発音に続いて濛々たる土煙が立ち昇りました。今の佃大橋のたもとのそばやさんに当たり、家にいたご家族全員が死亡されたと後で聞きました。翌日、現場を見に行きましたが、あの小さいロケット弾1発で家屋は全壊していて、その破壊力に驚きました。(今、同じ場所にそばやさんがありますが、このそばやさんとは関係ないそうです)全く一瞬の出来事でした。終日の警報下で誰も避難もせず、日常の生活を営んでいたのですから、超低空を瞬時に飛び去った戦闘機の機影さえほとんどの人が見ていなかったと思われます。この数日後に終戦となっただけに、犠牲となられた方には全く不運なことで、戦争の残酷さに今もって憤りを覚えるのです。

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