掲載日:2023年1月18日
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「戦争の思い出」 太田 ゑい(おおた えい)
昭和17年3月、月島第三の高等科を卒業し、十五銀行に入社しました。同時に都立洗心女学校(都立第六高女夜間部)に通いました。
間もなく十五銀行は、丸の内の第一銀行と合併、帝国銀行と改称されました。
この年すでに空襲が始まっており、警報が鳴る度に女子社員は、地下の大金庫内に避難いたしました。そこまでは爆音もとどかず、おしゃべりなどで敵機が去るのを待ちました。
席に戻ると周囲の方々が「爆弾は、あなたの家の方角ではないかと皆で心配していたのですよ」と言われ、すぐ屋上に上がって見ましたら、確かに下町の方角は黒煙に覆われています。然し、落ち着いて見ると、豊洲方面のように思われ、先ずは一安心。
この日を待つまでもなく、すでに武器のない戦争は始まっていました。
先ず、食糧がありません。いわゆる買い出しに行くのが当たり前になり、農家はお金だけでは売ってくれません。私共3人姉妹のセーラー服(当然純毛です)を差し出すと機嫌よく売ってくれます。しかし、それはお米ではなく、さつま芋かじゃがいもでした。それを背負って無蓋車の終車に、やっと乗せてもらい、真夜中に有楽町から勝鬨橋、西仲通りと佃まで歩き通しました。
母は、翌朝の食卓のお芋を指して「お前の身体を食べるようで辛い」と泣いていました。
昭和19年3月、夜学を卒業。それまで勉強させてくださった銀行に対しても、仕事は必死に致しました。何故か、私だけが特別賞与を戴きました。こうなると尚更、仕事に精を出すことになります。朝は誰よりも早く出社し、手早く掃除をすませ仕事にかかります。
毎朝、早朝出勤のため、衛士に見とがめられ、問題視されたこともありました。私のセクションが「軍需融資部」であったため、と後にわかりましたが、当時の私は、自分の勝手で夜学に通わせていただくので、その分少しでも朝のうちに、と早出していることを申し上げて、その後も続けて早朝の出社は続けました。
革靴などあろうはずもなく、下駄で毎日、丸の内から三田の校舎まで歩き通しました。
その頃、誰言うともなく、爆撃された越中島の糧秣廠に焼き米がある、洗濯石鹸がころがっている等の情報がひそかにささやかれ、隣組の人と出かけて行き、石鹸を拾って、久しぶりにさっぱりとしたものを着ることができました。
通勤の途中、黒船橋より下を見ると、流木に女の子がひっかかり流れて行きます。赤いセーターに緑のスカートをはいていましたが、今でもその姿が目に焼きついています。
佃地区には軍需工場があり、深夜、敵機に襲われたことも度々です。火の粉は容赦なく屋根に降りかかり、生きた心地はありません。男の方が何人か屋根に上り、払って下さったお陰で焼けずにすみました。
空襲が収まったところで、大部分の人がまた夜学に通いました。クラスの中でも消息の知れない方があり、日曜日に亀戸まで行って見ました。大方は焼野原、ついに手がかりは得られません。国電の下の側壁に人型に焼けたあとがあり、また、当時どの家にもあった用水おけ(石でできていました)に漬かったままの人もいて、佃は焼けなくて何と有難いことか、と思わず涙を流しました。
銀座四丁目に爆弾が落ちたと聞き、恐いもの見たさに出かけました。鳩居堂前、地下鉄入口に大きな穴があいて、見物人は引きもきらず、兎に角不発弾でよかった、と見物の人も早々に引き上げました。
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