掲載日:2023年1月18日

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「警備召集で留守の間に焼ける」 桜井 仁一郎(さくらい にいちろう)

私の父は、町名は変わったが、現在の場所で「桜井四宝堂」の屋号で、筆墨硯朱肉の製造問屋を営んでいた。東日本一円の問屋さん、小売屋さんに店員が出張し外交販売をしていたが、戦争で軍納品の需要が多くなるにつれて、陸軍第1師団留守部に筆と朱肉を指名納品するようになり、戦時中も忙しかった。

(戦線の拡大に伴い、調達役所名も1回から2回に変わり、最後は需品本庁であったと思う)軍納品の原料は特別配給で充分確保できたが、その他の一般取扱品は資材が少なくなり、品切れの続出であった。しかし、戦災で店が焼失するまでは軍納品は続けていた。

店は2月25日の昼間焼けたが、その時、私は店にいなかった。というのは、その少し前から、私に「白紙召集」がかかっていた。この白紙召集というのは、正式の名称は「警備召集」で、補充兵や予備役軍人を徴用して重要な場所の警備に当たらせていたもので、その徴用命令書が、入営や召集の赤紙と違って白い紙だったので、白紙召集と呼ばれていた。

空襲の警戒警報が出ると、この召集を受けている者は部隊本部に駆けつけることになっていた。そこで軍服に着替え、歩兵銃と牛旁剣で武装し、4、5人で1班を編成して、区内の重要な施設の警備任務に就く。自分の家からの出動なので、サボッて出てこない者もあり、毎日、顔ぶれが違った。

私は補充兵だったが、召集されて3年ほど中国で兵隊生活を送って、上等兵になり、前の年に除隊になっていた。
焼けた日も、私は朝早く家を出て、自転車で部隊のある有馬小学校(蛎殼町四丁目)に行った。この日、私の班の受け持ちは、日銀(本石町二丁目)と浪花電話局(富沢町)など3か所だった。

警備と言っても、建物の外での見張りだけで、交代要員が来ると、引き継いで次の場所に移動、こうして、くるくる廻って本部に戻り、服を着替えて帰宅に就く。いわば巡査の代りにすぎなかったが、2時間の立番勤務は結構辛い仕事だった。

夕方、部隊本部に引き揚げた時、人に言われて私の家が焼けたらしいということを初めて知った。軍服のまま、本部を飛び出した。

鞍掛橋まで来ると、焼け出されたらしい大勢の人だかりが目に入った。その向こうに、燃え残りの黒い材木がブスブスくすぶっているのが見えた。我が家のあったあたりは、一面の焼け野原だった。

私はがっくりして、そこで立ち止まった。その時、近所の人が私に声をかけた。覚えていないが、私はその人にお握りを差し上げたらしい。蛎殼町の部隊本部を出る時、誰かが「持ってゆけ」と何個かくれたものだった。それをそっくりあげたらしい。あとで、その人から何度も礼を言われたので思い出した。

両親のことを聞いたが、誰も知らなかった。ただ、怪我人は1人も出ていないというので、無事らしいと安心した。

日もとっぷり暮れた。行くあてが思いつかなかったので、私は部隊本部に戻り、その夜はそこに泊めてもらった。

翌朝、すぐ下の妹が嫁に行って小石川にいることに気付いた。そこは全然被害がなかったという。やはり、両親と妹がそこにいた。

話を聞くと、すぐ裏の家に焼夷弾が落ちた。運悪く、誰もいなかったので、火はアッと言う間に我が家に燃え移り、逃げ出すのがやっとだったという。父も母も和服だったので、無我夢中で逃げているうち、ふたりともハダシになっていたそうだ。雪の降った道をハダシで歩いていたとのことであった。

3月10日の大空襲にも、小石川は無事だった。その日の午後、知人の見舞いに行ってみて、あたり一帯の被害のひどさに驚き、しみじみ戦争の悲惨さを痛感した。

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