掲載日:2023年1月18日
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「苦しかった体験は現在の励み」 久長 満智子(ひさなが まちこ)
当時(昭和19年~20年)、私は都立竹の台高等女学校の4年生、5年生の2年間を王子の陸軍造幣厰(武器製造工場)の学徒勤労動員生として過ごしました。そこでは若い女性でないと難儀な細かい仕事、具体的には高射砲弾の信管を流れ作業で作っていました。
戦争も激しくなり、都市爆弾が街を焼野原にしていきました。成層圏を飛来する米国B29爆撃機の大群に、まるで線香花火を上げているような日本の対空砲射撃を私は防空壕の外に出て見ていました。空しく落ちてくる高射砲弾の破片を拾いに走りたい気持ちでした。
その頃はもう工場では信管を作るための部品の供給が難しくなってきており、流れ作業の部品が流れず、部品待ちを続けるような状態になっていました。
そのような状況の時でしたので、満足な食事はできませんでした。終戦間近では、お米の配給があればよい方で、粟、とうもろこし、ひえ、大豆のお粥を食べました。芋などあれば上等な方で、育ち盛りであったため、お腹が空いてしかたありませんでした。栄養失調のため家の2階へ上がるのに、足がだるくて上がらないようなこともありました。ところが、動員に行くと、そこで1週間に1度、金曜日に栗饅頭が1個、帰り際に配給になるのですが、それを家まで持って帰ることができないのです。途中で食べてしまうのでした。これが楽しみでした。また、1週間にやはり1度、3時にかけうどんが出ました。それは自分でお湯をかけて作るようなもので、5~6人ずつ食堂へ行って食べました。それもとても楽しみでした。
お昼は生ニシンを蒸したり煮たりしたようなものが出ました。「今日もニシン、明日もニシン」と毎日同じ物が出されたのですが、唯一のタンパク源で、おいしかった記憶があります。
動員では、どうにもならないけれども何かしらのお金をいただきましたが、お金は値打ちがなく嬉しくありませんでした。買う物がなく、また、自由に鉛筆1本買えなかった時代でした。
動員では、1か月交代で夜勤がありました。その時は夜の食事は12時で、その夜中の休みの時、工場の土手へ出て、きれいな星空を見て、星座を覚えました。心が慰められるとってもロマンチックな時間でした。また、若い女性でしたから動員の工場で監督をしている配属の若い将校や少尉に憧れたりもしました。
動員中の工場で、空襲があると、走って場外退避をさせられました。工場の中にも防空壕がありますが、危険なので、学生はやはり大切にされていたのでしょう。工場の外にも防空壕を掘ってあり、広い工場を走って外の防空壕へ行かされました。何しろ栄養失調の足で走るのですから、たまったものじゃありません。それが1日に何回も走らされるのです。これは大変つらい経験でした。
着る物についても贅沢は出来ません。色ものは狙い撃ちされるので、目立つ色は駄目で、黒を指定されておりました。たまに父の実家である四国へ妹と弟を連れて疎開している母が、紬の着物をほどいてモンペを縫って送ってくれたりしました。それがとても嬉しくて、贅沢な防空着となりました。頭巾も和服の良い布があると、それで作って女の子なりにおしゃれを楽しみました。紺絣などがある人は、上衣・モンペと防空頭巾をお揃いで作ったりもしていました。暖房のない冬は寒くて、下は古いセーター、上に和服地の上衣を着て厚着していたと思います。
当時、女子の着る物は指定されていて、和服の襟を合せて腰までの上衣とモンペの“2部式”と決められており、ワンピース形式の服は駄目でした。私は女学生であったので校服があり、校服は白のブラウスにハーフコートにスカートでしたが、戦時下はスカートに代ってズボンかモンペを着用しなければなりませんでした。動員に行く時は、校服でも和服・モンペでも2部式であればいずれでもよく、但し、校章と胸の名札(住所・氏名・血液型)を付け、防空頭巾を持つスタイルでなければなりませんでした。髪の毛は三編みににして、ゴム紐やリボンなどありませんから、紐で結んでいました。特配でさらしが1反きて、大変な貴重品扱いで、母が下着を縫ったこともありました。
生活面でも工夫しました。小麦粉が配給になった時、木の箱に廃品利用の銅の板を入れ、電気をつないで作ったパン焼き器に小麦粉を溶かして、膨らし粉を入れてパンを焼いたことがあります。電気をつけたところがやはり都会的であったのでしょう。
また、玄米をビンに入れて棒で搗いて、7分搗きくらいにして食べたりもしました。
とにかく物資がないことは辛いことです。世の中がすべて統制。家はお米屋だったので、統制で自由に売れませんでした。それもじきに食糧配給所になって商いとして成り立たなくなりました。母たちが疎開地から荷物を送ってくれましたが、どこかの駅で列車が焼けて、その荷物が届かないこともありました。
食べ物に困って『農家に親類があればいいな』と思ったこともありました。当時は「お嫁さんは農家からもらいたい」という人もいました。それだけ苦しかったのです。
昭和20年4月に、私は帝国女専の国文科へ行き、宇都宮の中島飛行機に学徒動員され、そこで終戦になりました。
私の家の辺りは空襲に遇いませんでした。どうも聖路加病院が近いから焼夷弾は避けられたのだと近所の人は言っていました。
家が焼けなかったため、古い物がたくさん残っています。特に疎開して戻ってきた箪笥などは今でも大切に使っており、古い物を大事に使う習慣が身にっきました。
「こんなに激しい変わり方ってあるかしら」と思うほど、戦後日本は変わってしまいました。ひと頃、こんなに良い物が、いろんな物があっていいなと思いましたが、今はそれを捨てる時代。変わり過ぎてしまいました。
青春の1番大切な時代を戦争という状況で過ごしてしまいましたが、許されれば、もっともっと勉強したかったと思います。人生で今が1番幸せな時かもしれません。
油絵は30年勉強しています。先日、2週間フランスヘ写生旅行へ行ってきました。ノルマンディーヘ3泊して、風景画を描いてきました。そのフランスヘ行くため、半年間フランス語を勉強したりもしました。
今は、戦争中できなかったことを、とにかくあれもやりたい、これもやりたいと、一生懸命です。苦しい体験は、しかし、現在の励みになっています。
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