掲載日:2023年1月18日

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「戦争被害体験記」 佐野 久子(さの ひさこ)

私の父の勤め先は、銀座二丁目の米田屋洋服店で、工場が蒲田にあり、工場につながって私の家がありました。私は、昭和20年4月15日に、その蒲田区仲蒲田に住んでいて罹災いたしました。1年前ころだったと思うのですが、それまで住んでいた家は、強制疎開でこわされ、隣の祖母の家のほうに移り住んで間もなくのことでした。祖母の家は、蒲田では大きいほうで、隣には、社長だった母の兄・柴田武治の家があり、庭は芝生で、睡蓮の池があり、池には鯉や食用蛙がいて、橋がかかっていて、その後ろには築山があり、ぐるりとめぐることができました。たくさんの植木のみどりに囲まれて、あちこちに庭石やつくばい、灯籠などがありました。その築山の下に、父は防空壕を掘って、警戒警報のサイレンの度に家族を避難させました。
当時、私は、都立第八高等女学校の2年になったばかりでした。4月15日の夜、警戒警報のサイレンが鳴ったか鳴らないか、たぶん鳴らなかったという程の急の出来事でした。急いで防空壕に駆け込んで扉を閉めて間もなく、ぴゅ一というB29の敵機の急降下の音、どかーん、どか一ん、爆弾の破裂する音に生きた心地もありませんでした。そーっと外を覗いた父は、「大変だ、直ぐ防空壕を出るように」と家族を促しました。焼夷弾が庭木に飛び散って、まるでクリスマスツリーのように何千という数の火が枝について燃え始めているのでした。一瞬、これが空襲でなかったら、真夜中にこんなに美しい景色はないと思えるほどの夢の世界にいるようでしたが、現実はこのままにしていたら、みんな燃え尽きてしまうことを直感しました。家にも、焼夷弾がいくつか落ちているので、父と兄は池の水を汲んで、なんとか消しとめようとしました。母は、鎌倉の別荘に移り住んだ祖母が危篤でそちらに行って居りませんでした。後で、祖母はその日に亡くなったことを知らされました。

私は、お腹の大きい兄嫁と一緒に、衣類その他、リュックサックを背負い荷物を持てるだけ持って兄嫁と手を取りあって逃げました。夜空を見上げれば、まだB29の敵機は、波状型になって撃ってきて、通り過ぎていくたびに、ぱらぱらと焼夷弾を落としていくのがはっきり見えるのでした。逃げ道には直ぐ焼夷弾が落ちてきて燃えだし、通路は逃げ惑う人たちでごったがえしていました。防空頭巾や綿入れの半纏に火の粉がついたのを兄嫁と消し合いながら、どちらの方向に逃げたらよいのか見当もつきませんでした。
逃げるのに精一杯で、持ってきたものも万一あとで取りにこられればと、途中の防火用水の中に捨てたりもしながら、大森駅のほうに向かって真っ赤に焼けた空の明かりのもとを逃げのびました。疲れ果てて防火用水池の周りに人々がたむろしていて、私と兄嫁もしばらくそこで休み、大森駅の近くで、焼けなかったお家の方がご親切に「お入りなさい」と言ってくださって、そのご親切に甘えて入れていただきましたが、そこのお家も十数人の人たちでいっぱいで、でも畳の上に座らせていただけたこと、お水を飲ませていただいたことは本当に今思い出しても、そのお家の方のご親切に感謝致しております。
うとうとしただけで、夜はしらみはじめ、お礼を言って明け方早く気掛かりだった我が家に向かって歩き始めましたが、どこも焼けてしまって、もうどこがどこやら焼け野原になっていて、我が家もたぶん駄目だろうと思いながら、やっと池のある庭を目印にたどり着きましたが、家は跡形もなくなっていて、まだ燃え残りが臭くて、バケツで池の水を汲んでは消火しました。それぞれ別々に逃げた父や兄も無事に戻ってきて、お互いに生命があったことを喜び合いました。

私は、心配して神田から自転車で探しに来てくれた叔父・佐野龍造の自転車の後に乗せてもらって国道を真っすぐに銀座へ出ました。銀座通りにある父の会社のビルにちょっと立ち寄ったとき、焼け焦げた半纏を着たままの私は恥ずかしい思いをし、その日は神田の叔父の家へ連れて行ってもらい、2日位泊めてもらいました。
その数日後、また、焼け跡に戻り、防空壕の生活を少ししてから、私は、父の勤め先の銀座の米田屋ビルの地下室に父と泊まるようになりました。
5月25日、銀座一帯が空襲で焼けたとき、私は、ここの地下室に住んでいて、ビルのシヤッターをちょっと開けたとき、私は、銀座の燃えているのを目撃しました。5階は、母の弟・柴田三之助(銀座通り連合会副会長)の一家4人の住まいになっていて、上のほうから燃え出したということであったので、私は、バケツに水を汲んでは、階段を駆けのぼって消火に努める父たちの手伝いをしました。もし、そのままだったら、私たちはビルの中で蒸し焼きになってしまっていたかもしれなかったのでした。あとで、銀座を住まいにしている人は数える程しかいなくて、銀座二丁目で焼けなかったのは、このビルだけだったことを聞いて、なんとも感無量でした。
その後、私は父の生家である千葉県安房郡千歳村白子に母と2人で疎開しました。県立館山高等女学校に転校しても、授業は1日もなくて、毎日慣れない田植えで蛭に食われたり、「疎開っ子」と言われ、言葉も方言がよくわからなかったりして地元の人たちとはなじめませんでした。グループで麦刈りの奉仕をさせられたりしましたが、手伝いに行った先で銀シャリのおにぎりを食べさせていただいたのが何ともうれしかったことを思い出します。その間も空襲に遭い、房総の浜辺の道で、急降下してきたB29の機銃掃射で危うく死ぬところを助かった恐い経験も致しました。

母と私は、父と一緒に暮らしたいと、終戦前に東京の等々力に家を買ってくれた父のもとに戻り、8月15日正午、隣家へ呼ばれてラジオで天皇陛下の玉音の終戦の放送をお聞きしました。
その日からひと月しない9月11日、母は風邪がもとで1週間床に就いただけで亡くなりました。普通だったら風邪くらいで死ななかったと思うのですが、食べざかりの私に食べさせたくて、母は我慢していたのでしょう。栄養失調で体力がなかったのだと思います。そのときのことを思うと、私は母にすまないことをしたと思っております。
戦中戦後、食べるものも配給だけでは食べていかれず、すいとん、さつまいも、1粒のご飯も貴重で、いつも大豆の炒ったのを持ち歩き、母の焼け残った着物も、交換にいって、食物に替っていました。戦後、闇市が溝ノロにできて、物々交換などもできるからと、いっぺん父に連れて行ってもらいましたが、甘いものも食べられなかった私は、おまんじゅうやお汁粉まで売られていてびっくり致しました。
父は、洋服関係の本に、佐野という名人がいたと書き残されるように、祖父に見込まれ、当時の有名人の洋服を仕立てたりしましたが、戦中戦後、統制で洋服生地もなく、商売にみきりをつけ、その後、銀座四丁目3番地の焼け跡に、仮の家を建てて、千歳という果物屋に商売替えを致しました。お店の前は、昼間でも露店が出ていました。家を建て直してすぐ、父は倒れて数日で、昭和23年5月21日、亡くなりました。

私は、そこの家から学校に通いました。人文地理の授業で、なんでもよいからレポートを出すように、という夏休みの宿題で、私は大好きなわが街「銀座」をテーマにして銀座の地図や、どんなお店があるかとか、銀座の七不思議などの昔の話など、熱い夏の日射しのもとで、聞いたり調べたりして書きあげて、和紙に墨絵で銀座の柳を書いて表紙に仕立てて提出しました。当時の通信簿は、小学校のときは、甲、乙、丙、丁で採点され、女学校では、秀、優、良、可で採点されましたが、それは「秀」で、先生から褒められ、クラスで発表させられたことを覚えております。
私は、わが街銀座を、築地を、そして、中央区をこよなく愛しております。今は、隅田川を眼下に見下ろす築地のマンションに住んでいて、亡き父母や母方の先祖のいた地、銀座二丁目に勤めております。かつて祖父の建てたビルはいまは人手にわたり、昭和55年8月そのビルの解体工事をしたとき、ビルの最後も見とどけました。
先日、通りの名を決める銀座二丁目の町会の会合にも代理で出させていただいたのでしたが、観世流の謡曲の好きだった父や伯父がどんなにかよろこんでいるのではと思われる「観世通り」という名前に決まったということは大変うれしいことでございます。
焼け跡から見事に復興した銀座を、中央区を、東京を、日本を思うとき、世界を2度とあのいまわしい戦争に巻き込むことのありませんようにと、ただただ祈りをこめて、私はこれからも、1日1日をまごころをこめて、触れ合う人々と調和をめざして、助け合って生きてまいりたいと思っております。
一人ひとりが自他のない愛の心で、まことの生き方をしていったとき、争いのない平和な地球になると信じております。

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