掲載日:2023年1月18日

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「空腹に響いたB29の爆音」 高橋 富男(たかはし とみお)

私は、当時、京華小学校の6年生だった。多感な年頃だったためか、その頃の記憶はたいへん鮮かに脳裏に残っている。

当時の八丁堀には、なぜか空襲が多くあり、度重なるうちに大きな被害となった。木造の人家が密集していたので攻撃目標にされていたのかもしれない。

私の記憶に残る大きな空襲は、昭和20年1月27日の昼からの空襲。この時は爆弾によるもので、私の家の近くの路地裏にも落ちて、その前の家の人は爆風で壁に叩きつけられるようにして亡くなった。その時の空襲では、胴体だけが空を飛び、民家の屋根を突き抜けて、その家の2階の部屋に落ちるという悲惨な被害もあったと記憶している。

次に、3月9日夜からの東京大空襲だが、この時、印象にあるのは、月島や勝鬨方面からサーチライトに照らされた超大編隊のB29の不気味に白く光る胴体だった。1,000メートルくらいの上空を飛んでいるはずなのに、私の空きっ腹をブルブル震わす低いエンジンの振動音。止めどもなく「ヒューヒュー」と音をたてながら、斜め後ろの方へ落とされて行く焼夷弾を見た。

このB29の東京空襲は、昼間もよく見られた。東京に侵入して来るB29の編隊に、日本の特攻機が2~3機ずつ果敢に攻撃をしかけるのだが、圧倒的な力の差を持つB29の反撃にあって撃墜されて行った。B29と特攻機では、トンボと蚊ほどの差が感じられたが、それでも、当時、東京上空で何回か特攻機がそのB29を撃墜している。

ある時、爆弾を落とされるのも忘れて、侵入してきたB29を見ていると、日本特攻機に銃撃されて炎上し始めた1機が編隊を離れて旋回を始めたが、それでも火は消せず、煙が火の玉のようになり、東京上空に巨大なB29の断末魔の姿をさらして墜落した。その後、そのB29は目黒の祐天寺の方に落ちたと聞いたが、私たちは東京の空襲に来るB29を呪い、1機でも特攻機が落としてくれるよう力一杯の声援を送っていた。

八丁堀は、八重洲通りを挾んで両側とも通り沿いが強制疎開で取り壊され、防火帯になっていたが、それが幸いしてか、3月10日の空襲では二丁目側にはそれほど被害が出なかった。ところが反対側の通りで燃え盛る火の勢いは並のものではなく、火の粉が「グォー」と渦巻き、「パチパチ」とこちら側の家の壁に当たったので、こちら側もいつ燃え出してもおかしくないような状態であった。
そして、我が家が焼失してしまったのは5月23日夜からの空襲だった。この日、八丁堀二丁目には、次から次へと焼夷弾が落とされた。なかには焼夷弾の直撃を受けた人も出るほど、非常に悲惨な状態であった。東の空が白んで夜が明けようとする頃、遂に我が家にも火がつき、なすすべもなく焼け落ちてしまった。その時は、消火活動などよりも、家族と一緒に火の手を避けて避難するだけだったようである。
焼け出された家族は、母の兄の家がある箱崎町に行き、ここでお世話になった。箱崎へお世話になって1日過ぎた25日の夜からの空襲は、これまた大変な規模の空襲で、銀座から木挽町一帯をはじめ江戸橋、室町、兜町、小網町などの大半が焼けたが、箱崎町からそれを見ていると、炎の明るさで街が昼間のようだったことを覚えている。

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