掲載日:2023年1月18日
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「疎開生活は、その後の人生を変えた」 竹村 桂子(たけむら けいこ)
私は昭和19年8月末から昭和20年8月一杯まで、旧入間郡吾野村(現:飯能市)にある法光寺に、児童、先生、寮母さんとともにお世話になりました。まるで、それは家族のようで、6年の男子をお兄ちゃんとするならば、3年の男子は弟、そして6年担当の川本先生がお父さんで、3年担当の私がお母さん、更に寮母さんが私のお母さんという家族構成で慣れない田舎での疎開生活が始まりました。
当時、吾野村は山間の村で、作物が獲れない、米1つ獲れないような村で、村の産業といえば浅野セメント工場があるのと、木工が盛んであったぐらいのところでした。ですから、村の人たちは自分の家で、自分たちが食べる分の作物しか栽培していませんでした。
しかし、木材は豊富にあったわけで、村長さんのお心遣いで何としても風呂場を建ててやらねばと、バラックでしたけど新しい畳1畳敷の五右衛門風呂脱衣場を作って下さいました。あの当時にすれば贅沢な風呂で、お寺の本堂から廊下づたいに行ける立派なお風呂でした。ですから、毎晩お風呂に入れました。
また、山峡だけに冬が寒いので、6年生と3年生が寝泊まりする大きな部屋2室に、やはり畳1畳敷の掘り炬燵(コタツ)を作っていただきました。でも、とにかく昼間よく遊ぶので疲れ、勉強よりもよくそこで寝ていました。
炊事場はお寺から少し離れた所に建て、かまどを2か所、その炊事場に作って下さいました。炊事には東京から寮母さん1人、村から炊事の係の方を2人、頼んで来てもらっていました。その東京からの寮母さんは6年生男子の父兄で、子供が寝小便をするというので寮母に志願されたのです。我が子と同じ疎開先で寮母として働かれているわけですが、この方がなかなかけじめのあるお母さんでした。我が子を特別扱いにするどころか、反対に他人から見れば素っ気ないほどで、けじめをきちんとつけておられました。難しいことだろうと思います。そのお母さんは、いつでも私を立てて下さいました。その子は5から6人兄弟の末っ子で、そのお母さんもかなり年配の方でしたから、私は実のお母さんのように慕っておりました。
婦人会で子供たちに藁草履を編んで下さいました。ですから、疎開中はどこへ行くにも私も子供たちも藁草履を履いて行きました。
お米は獲れない土地でしたから白いご飯は食べられませんでした。従って、雑炊、かぼちきゃが中心でしたが、その代り、量は沢山食べることができ、お腹が空いたようなことはありませんでした。
それだけに、浜町国民学校の父兄が村の方方に感謝を表し、珍しい物資を村へ寄贈するようなことをしていたように思います。また、父兄が油気がないからと、食用油を運んでくれたりしたので、それで天ぷらを揚げて子供たちに食べさせてやったりもしました。
村からこんにゃく玉を供出されて、困ったことがありました。都会育ちの私は、完成品としてのこんにゃくしか知らなかったのです。それで、村から来ていただいている炊事の方に教わって、初めてこんにゃくを作りました。子供たちに「ここで作ったこんにゃくだから、たんと食べなさい」と言うと、「先生、東京で食べるのと随分違うよ」と言うのです。それは私たちが食していたこんにゃくのように透き通っておらず、真っ黒でコリコリしているのです。
村から来ている炊事婦さんが器用な方で、自分の家からメリケン粉を持ってきて、蒸して饅頭を作って、おやつに出して下さったりもしました。食事のメニューも毎日変えて下さいました。野菜を入れた雑炊や蒸しパンなど、とても美味しくいただきました。
考えてみると、このように村の方々の協力もあり、父兄の協力もある中で、食べる物には不自由しなかったようです。それでも栄養のバランスという点では、確かに動物性タンパク質は不足していました。
勉強は6年生は吾野の国民学校で教室を1つ提供していただき、川本先生という方が引率して行って、午前中だけそこで授業を行い、午後はお寺へ帰って食事を済まし、また受験勉強をよくやっていたようです。3年生は小さいので、本堂の日当たりの良い廊下へ座らせて、私が勉強をみてやりました。
3年生の子供たちは、午後はたいがい自由に遊ばせました。よく遊んでいました。
夜も6年生は矩燵の中で受験勉強をよくやっていました。3年生は静かにしないとしかられるのでシーンとしているのですが、昼間遊び疲れているので、こっくりこっくりしていました。必ず布団の上に座らせ、「お父さん、お母さんおやすみなさい」と、1日のけじめをつけさせて、3年生だけは早めに休ませるようにしていました。
布団や衣類は家から送ってもらいました。池袋から西武電車に乗ると吾野が終点で、ちょうどお寺の本堂の廊下の上が、貨物の引込線の終点でした。そこから駅の方が「センセー!疎開の荷物だよ」と呼んでくれ、荷物を落としてくれると、縁側のところへ落ちるようになっていました。
父兄が池袋の駅へ荷物を持ち込むと、池袋の駅長さんと吾野の駅長さんがタイアップして、他の荷物は載せなくても、疎開児童の荷物を優先させて届けて下さいました。それだけ疎開優先の時代だったのでしょうが、吾野の駅長さんにも本当によくしていただきました。また、疎開の子はとにかく親と離れて暮らしているのだからかわいそうだという観念が村全体にあったようです。
法光寺はちょうど駅の真ん前にあるお寺で、朝晩、通勤・通学の人が皆お寺の門前の横に自転車を置いて電車に乗ってましたから、子供たちもその光景を毎日見ており、よく「いってらっしゃい」などと、村の人に声をかけていました。
洗濯は、寮母さんと私の2人で行いました。今日は3年生が出す日、今日は6年生が出す日と決めて、川で洗濯しました。私も生まれて初めて川で洗濯をしたのですが、衣類が洗っているうちに流れて行ってしまうのです。次第に慣れましたから、なるべく大きな石を持ってきて、それでせき止めるように工夫しました。
私は、とにかく疎開生活で家庭的な雰囲気をできるだけ持たせてあげようと努力しました。ですからホームシックなどということはあまりなかったようです。1軒の家と同じでした。面会の人が子供に「家の人に何か伝えることがある?」と聞かれても、「何もないって言って」という子が多かったようです。寮母さんに「子供ながらに遠慮しているのかしらね」と言うと、「いいや、先生がお母さんのようによく面倒を見てあげて、側に行ってはよく頭を撫でてやったり、お話したりしてあげていらっしゃるから、寂しくないんですよ」と言って下さった言葉が嬉しくて忘れられません。
6年生と川本先生は受験のために3月1日に村の人に送られて浜町へ帰って行き、そして10日、大空襲に遇いました。空襲の日、お寺の本堂から東京方面の空が真っ赤になっているのが見えました。3月10日の朝、東京で焼け出された人がゾロゾロゾロゾロ吾野の駅で降りて、土手の上をあがって行くのを見た時、『ああ、嫌だなあ』と思いました。その人たちに向かって3年生の子供たちが「おじさん、浜町焼けた?明治座焼けた?」って聞くと、「疎開の子かい?ああ全部焼けてしまったよ」と、そこで初めて、あのー帯が全滅したことを知らされたのでした。
後に3年生の生徒のお母さんが亡くなられたことがわかりましたが、あえてその子供には言いませんでした。終戦後、いよいよ引き上げる時に話しましたが、本人は既に知っていました。それとはなしに、子供同士で言い合っていたのかもしれません。子供ながらに悲しみを堪えていたのかと思うと不憫でなりませんでした。
疎開中は子供を守るということが私に課せられた使命でした。お陰様で大過なく過ごすことができたのも、ひとえに村の方々の、そして父兄の協力があったからこそだと感謝しています。それだけに、疎開というものに対して、嫌な印象というものを全く受けずにすますことができました。
私にとって疎開はあの一時の経験ではなく、その後の生活全てにつながりがありました。あの経験がなければ今の生活そのものが変わっていると思えるくらい、私の人生に密着した出来事でした。ですから、終生、あの村とあのお寺に対してはお付き合いをしていきたいと思っています。そして、あの疎開生活は決して忘れてはならないことで、疎開生活を知る私たちが次世代に疎開の体験を伝えていくことで、平和を唱えていきたいと思うのです。
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