掲載日:2023年1月18日
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「あの夜の空は美しかった」 後藤 種吉(ごとう たねきち)
もう、あれから45年という長い月日が経っている。3月10日の大空襲のことを聞かれて、まず思い出すのは、あの夜空の情景だ。
もう地上は一面火の海だった。黒い煙が空に昇って雲になったのか、その雲が赤く染まっていて、その中からB29が出てきた。低空で、すごく大きく見えた。ジュラルミンの機体がキラキラ白く光って、それに赤い炎が反射して、なんともいえず綺麗だった。すさまじいまでの美しさだった。その時、恐怖心もなく、ただ「綺麗だ」と思ったことを覚えている。カメラマンの本能だろうか。
私はフリー・カメラマンのかたわら、両国でカメラ材料店をやっていたが、戦時統制の企業整備で店を閉めさせられた。紹介してくれる人があって、18年秋ごろから「東方社」というところに勤めた。
東方社は、陸軍参謀本部が当時のいわゆる大東亜共栄圏向けに発行していた宣伝広報誌『フロント』という雑誌を編集していた。写真に関する一切が私の仕事だった。
戦局が厳しくなったのを知って、19年の暮れ、家内と子供2人を秩父に疎開させ、私は両国から九段下まで毎日自転車で通った。以前うちの店員だった若い夫婦が一緒に住んで、食事の面倒をみてくれた。
9日の夜は、たまたま若夫婦が田舎に帰って、私は家にひとりで寝ていたが、警戒警報で起こされた。まだ空襲警報が出ないうち「空襲だ、B29だ」という声がして、外に出た。見ると、両国橋の方から超低空で1機が来た。なにもせず、旋回してどこかへ飛び去った。
ホッと一息ついたと思う間もなく、今度は大編隊が来た。近所には落ちなかったが、焼夷弾がメロメロと燃えながらあちこちに落ちるのを見た。「今度はやられるな」という気がした。
私は、大事にしまっておいたフィルム10本ばかりを毛布に包み、僅かな身の回り品と一緒に自転車の荷台にくくりつけた。そうこうしているうちに、近所が燃えだした。しばらくは、火の粉を避けながら、あたりをうろうろしていた。
そんな時、すずらん通りの角にあった「関口」という玩具店の人のように覚えているが「明治座へ逃げよう」と誘われた。しかし、もうあちこちが燃えている。自転車を曳っぱっては、とても無理だと断わった。私は、自転車のおかげ、というより貴重品のフィルムのおかげで、生命が助かったわけだ。
浅草橋のたもとに逃げた。そこに両国郵便局があって、付近は強制疎開になっていたのか、ちょっと広々していた。通りに小さな防空壕があり、そこに入った。初めに話した光景は、この防空壕の中から見たものである。しかし、この壕は青天井なので、危険だと思い、出て郵便局の建物に身を寄せた。なぜか、このあたりにはだれもおらず、私ひとりだけだったように思う。
広い電車通りを火の粉が川のように流れていた。風がゴォーッと鳴り、火の粉が渦巻いた。身がすくむ思いで、動けなかった。私の家の方を見ると、一面火の海だった。「もう駄目だな」と観念した。風が熱気を運んできて、からだがほてった。だが、熱くて我慢できないというふうではなかった。川には網船など数隻あったが、焼けずにすんでいた。
一睡もせず、そのあたりをうろちょろしていた。夜が明けて、火も鎮まった。両国一帯の焼跡を見て、自分の家も完全に焼けたのがわかった。
兄が池袋・千早町にいたが、幸い被災しなかったので、そこに厄介になった。気持ちが落着くと、焼跡の写真を撮りたくて、たまらなくなった。昼間抜け出して、自転車で両国へ行って、撮りまくった。『東京大空襲・戦災誌』(東京空襲を記録する会編)に載っているのが、そのうちの1枚である。
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