掲載日:2023年1月18日
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「学童疎開する友を見送って」 手塚 久美子(てづか くみこ)
49年前の昭和16年12月8日朝の大本営発表の臨時二ュースで大東亜戦争の勃発を知り、「戦争だ」「戦争が始まった」と頭と胸は渦を巻き、落ち着かない日であった。当時の家族は父母、長兄、姉、次兄(戦死)、三兄と末っ子の私の7人である。
当時小学校4年の私には戦争の是非はわからなかったが、学校の授業は日に日に変化し、いつの間にか体操が教練のようになり、陸軍将校が軍刀を持ち、校庭で分列行進する生徒を叱咤する。足の悪い私は、半日近くも続く体操の時間は疲れて気が重くなることが度々あった。
翌昭和17年4月19日東京初空襲の日に父が入院し約1か月後に亡くなったが、父が存命中に長兄へ召集令状が来た。父は「家のことは心配しないで一生懸命御奉公しなさい」と病床から励まし、数日後に亡くなった。悲しんでいる暇もなく父の初七日の朝、長兄は入隊(北支から戦後復員)した。その後、姉も旧セレベス島マカッサル海軍防疫研究所へ派遣され(無事帰国)三兄も役所の疎開地に転勤と家族が次々と4人もいなくなり、狭い家が実に広く感じたことを覚えている。
学童疎開は縁故疎開者を別として5年生以下が秩父と決定したが、6年生の私は行かれない。子供心に皆とは何となく別れがたく、日頃あまり遊ばない子とも仲良く遊んだ。昭和18年の何月だったろう、夜だか早朝だったか忘れたが、出発当日、とにかく肌寒く、暗い校庭へ疎開の見送りに母と一緒に行った。校庭の片隅では母子兄妹、友達とあちらこちらで肩を抱き手を握り、小さい声で別れの言葉を囁き泣いている姿が見られた。母は新聞紙に包んだふかし芋を「餞別よ」と近所の子に手渡し、私も大きな銀杏の木の下で握手をして別れの言葉を交わした。「整列」の号令で皆並んだ。見送りの人は校門までとの先生の言葉に、見送る人も見送られる児童も皆モンペ姿に防空頭巾を肩にかけ口数も少なく互いに手を振って暗い中、勝鬨橋を渡って行った。わが子の名を呼びながら校門の所で背伸びして目で姿を追っている母親の姿に「戦争はこわいね」と母はポツリと言って私の肩を抱き家に帰ってきた。
翌日、校庭の銀杏の木にひとりでよりかかり目をつぶる。縄跳びやお手玉、おしくらまんじゅうなどで空腹を忘れてわいわい遊んだ友達の姿が目に浮かぶ。目をあければ人影まばらな校庭の広さが胸を打つ。「来春卒業だから、もう皆とこの学校で一緒になれない」と思うと、どっと涙がこぼれ、一緒に疎開できない6年生の淋しさは骨身にしみた。
家の人も友達も遠くへ行った、そんな淋しさを吹き飛ばすように、陸軍の兵隊が校舎に土嚢を積み上げ、常駐するようになった。その中で私たちは「我等は日本小国民」の意識を叩きこまれ、教練、受験と卒業に向かっての準備に忙しく、空襲と防空壕に次第に馴れていった。そして昭和19年3月無事に卒業式を迎えた。手渡された卒業証書には月島第二国民学校と書かれていた。
私の女学校入学をよろこんでくれた次兄は昭和19年秋に繰り下げ召集(数え20歳)で入隊し、戦死した。
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