掲載日:2023年1月18日
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「出産の翌日、嬰児と防空壕へ」 高橋 すみ子(たかはし すみこ)
私は、昭和20年を妊娠9か月という身重の状態で迎えた。
19年の末から始まったこの付近一帯への空襲時にも、その身重の体で、長男の手を引き、防空壕への避難を繰り返していた。
食糧もあまりなく、常に緊張状態におかれていた。今思うと、よくそれまで流産をすることもなく無事でやってこれたと不思議に感じる。
その当時は、日本中、国を挙げて「産めよ増やせよ!」「子供は国の宝!」などということだから、空襲が毎日繰り返されるという非常事態の状況下でも、「これから生まれて来る子供のためにも、ちゃんと生きなければならない」という気持ちが強かった。
そして、私は、昭和20年の2月18日夜8時に茅場町の産婆さんのところで、次男を出産した。
その次の日、19日の昼間、茅場町一帯は焼夷弾と爆弾による空襲に見舞われた。私はまだ、生まれたばかりの次男と2人で、産院で布団に横たわり休んでいた。
産婆さんの「空襲ですよ!防空壕に避難しなくちゃ・・・・・・」という声。
急いで飛び起きた私は、小さな次男をタオルにくるんで、寝巻のまま外へ飛び出し、あわてて防空壕に避難したことを覚えている。
この空襲では近所が焼けたが、幸い私が世話になっていた産院は助かったので、ここに3日ほどいて、出産して4日後の2月22日の昼過ぎに、我が家に次男を連れて帰って来た。
その頃、我が家では夫が地域の警防団の役についていたから、産後の妻にかまう暇もなく、警報のサイレンが鳴れば勿論のこと、普段でもほとんど外へ出ていた。
産後間もないといっても、このような事情では休むことはできず、家の中の仕事はその日から私が細々とやり始めた。
食事をつくるにも、名ばかりの配給で、食糧自体があまりなく、さつま芋に米を混ぜて炊いたりしていたので、おかずなどこれといったものは何もなかった。それでもどうにかこうにかやっていたというのは、当時の人々がみなそうであったように、空襲を受けたり、常にひもじい思いをしていても、気力だけは張っていたのだと言える。
ところで、私たちの家も、5月23日夜からの大空襲の際に、焼夷弾を投下されて燃え上がった3、4軒先からの火災の拡がりに包まれた。夫は地域全体の防火の方へ採られているので我が家の方には来られず、残された私1人では、消火作業をしたり、家財を持ち出す間もなく、見る見るうちに全焼した。
その時は、燃え落ちる家への感慨もなく、ただ逃げることだけに夢中であった。この時、2人の幼い子を連れて安全な方へ避難するといっても遠くには行かれず、日頃の空襲の時に避難場所にさせてもらっていた近所の大宮肉店さんのお店の大型冷蔵庫へ逃げ込んだ。その日も、生まれたばかりの次男をタオルに包み、片手でダッコして、片手では長男の手を引くという恰好で必死に避難した。
この空襲の被害は家が全焼しただけで、家族がだれも傷つかなかったことが何よりの幸いだった。家を失った私たち家族は、箱崎町に住んでいた兄の家に世話になり、そこで1年半暮らした。
家族が元の家があった場所に戻れたのは、昭和21年も終わろうとしていた頃で、バラック小屋をどうにか建てて、親子4人水入らずで住み始めた。本当に何もない再スタートではあったが、寒さもそれほど苦にならず、若さが手伝ってか、何か希望に満ちた毎日であったような気がする。
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