掲載日:2023年1月18日

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「甘酒横丁の焼跡に畑があった」 近藤 光男(こんどう みつお)

昭和20年の3月10日の大空襲の時には、私はこの地で空襲を受けました。家族全員一緒で、いまの東商信用金庫がある辺りから東華小学校の辺りまで逃げて行きましたが、近くにあったお米屋さんや、近所の人たちもみんな一緒でした。
朝になって、家の近所は焼け残ったと聞いて、みんなでそろって帰ってきたわけです。周囲が明るくなって見回すと、あたり一面がきれいに焼けてしまって何1つ残っていませんでした。新聞社の屋上から葛西橋辺りまで見えたんですから。
ところが、この人形町二丁目あたりは奇跡的に焼け残っていました。大門通りからこっちは全然燃えなかったんです。ですから、戦時中、私のところはまったく火災にはあってないんです。その頃、浜町公園に高射砲陣地があって、そこへB29が来て、そのうちの1機を落としたということなんかはよく憶えていますね。
私の家は変電所の裏にあって、建物の強制疎開にあいました。自宅のすぐ近くに変電所と毎夕新聞社があったため、壊されてしまったんです。昭和20年の6月か7月のことでした。終戦の直前のことです。終戦まで2か月あったか、ないかという頃だったんですから。もう少し後だったら、家を壊されずにすんだのに、と後からみんなで言い合ったものです。
家を強制疎開されたことへの補償なんて特になかったですよ。ただ、壊された古材木を安く売ります、という話はありましたね。当時の私の家は、その古い材木で建てました。あの当時、いくらだったか・・・・・、家を壊されてしまって、別の所に建てるのに材料が足りないというので、廃材を買って来て、それを組んで建てたんです。

食糧難だということはよく言われましたが、私自身はさほど食べ物に苦労はした記憶はありません。あの当時、うちの母がどういうふうに調達していたのか知りませんが、食べ物にはあまり苦労しなかった気がします。
特に記憶に残っているのは、近所の焼跡の原っぱに畑をつくったことです。甘酒横丁の焼跡につくった畑で野菜を育てたんです。じゃが芋だとか、かぼちゃだとか、さつま芋だとか、自分たちで耕したものを食べたのはよく覚えています。お米は近所の小川さんという家が米屋さんだったので、そこからもらっていたのかもしれません。
私は当時、鉄道に就職していまして、鉄道のバッチをつけた制服を着て買い出しに行ったこともありました。
私の同級生の中には志願して軍隊に入った人もいました。そんな友人から「おまえも軍隊に入らないか」と誘われて「じゃあ、行こうか」と海軍に志願したのですが、目が悪いというので落とされちゃったんです。
幸か不幸か、そんなわけで今もこうして生きているわけです。私の父はもう亡くなりましたが、戦時中は人形町の警防団員として活躍して、何度か表彰状をもらっているんです。

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