掲載日:2023年1月18日
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「私と戦争」 石川 浩司(いしかわ こうじ)
私は昭和3年1月7日、京橋区京橋二丁目(現中央区京橋)に生まれた。
私の戦争についての記憶は昭和11年2月26日の「二・二六事件」から始まる。
風を伴った重い雪のための停電、そして翌朝ラジオが何分置きかに繰り返す「銃声の聞こえて来る方角にタンスかふとん等を置いて静かにしていて下さい」というアナウンサーの声が妙に明瞭な記憶となっている。当時小学校3年生になる直前であるから、多分この記憶は間違っていないと思う。
私の家は商家であったから、住み込みの若い人に連れられて、有楽町から日比谷交差点のあたりまで見物に行った。雪の溶けた水溜りの中に身を伏せて、重機関銃で有楽町駅の改札口を狙っている兵士の姿は、子供心にも何かこれから来る時代の姿を感じさせた強烈な印象であり、その場面は映画のように鮮明に脳裏に刻まれている。
昭和16年12月、日本軍の真珠湾襲撃の直前に、私の家は目黒に引っ越した。その翌年の4月18日、開戦後初のドウリットル隊による東京空襲では、私の家の真上を超低空で飛び去るB25を見送ったが、その直後多分同じ爆撃隊によって、父の経営する高田馬場の工場が1トン爆弾の直撃を受けた。幸い昼休み中であったため人間の損害は無かったが、工場の倉庫はふっとび、跡に直径十数メートルのすり鉢状の穴が残った。
中学3年生の私にとって、いよいよ戦争が自分のすぐ目前の事実として認識せざるを得ないものになってきた。そして自分自身が兵士として戦場に、2、3年のうちに確実に行くという実感を持ったのである。
京橋から引っ越したと言っても、京橋昭和小学校(現城東小学校)時代の友人とはよく会っていたし、親戚も京橋、木挽町、浜町等にいたし、まして銀座の昭和17年頃は、まだアイスクリームもコーヒーも食事も出来、又私の行っていた学校の縄張りの遊び場なので、現在の中央区(もう京橋区から中央区に変っていたが)とは縁は切れていなかった。
昭和20年1月27日、冬の日差しが麗らかな午後だった。私は動員先の大森から有楽町に向かって電車に乗っていた。実は動員先の仕事をサボッて京橋交差点の地下鉄の入口で友達と待ち合わせていたのだった。
ところが浜松町を発車した直後、空襲警報新橋の日通のところで停車。電車から降ろされて土手に「伏せろ」の命令。暫くすると体が飛び上がる様な振動、轟音と共に新橋駅から銀座通りの方に掛けて爆発音と砂埃が高さ何十米にも上がり、時々白く光って見えた。焼夷弾よりも、むしろ爆弾による攻撃であることはすぐ分かったが、ちょうど銀座通りに沿って、新橋から京橋が破壊された、昼間の初めての規模の大きい空襲であった。爆煙と土煙で何も見えず、勿論立ち入りも禁止されていたが、何よりも待ち合わせた友人の安否が案じられた。
通り魔の様なB29の編隊群はアッと言う間に南の海に消えて行ったので、私はなんとかごまかして非常線をくぐり京橋の交差点に行ってみた。
そこはまさに地獄としか言い様が無い有様であった。
私が待ち合わせをした地下鉄の入口は完全にすり鉢型の穴と化し、あたりには(泥まみれなので見た目の刺激は少なかったが)腕、足が飛び散り、電線には手首がぶら下がっている。あたりの壁には、赤インクに浸した雑巾の様な血だらけの着物が張りついている。
もし私があと15分早くそこに行ったならば、当然あの赤いぼろ切れになっていた事であろう。人間の運命など、はかないものとつくづく思ったものであった。
後で分かったのだが、幸いにして友人も電車の中で空襲を迎えて、約束通り待ち合わせ場所に行くことができず、そのため命を拾うことができたのであった。
この2か月後、あの大空襲が東京の下町を襲った。
それまでの空襲は、軍需工場に昼間行われるものばかりで、1月の銀座の空襲が、当時私の知る限りでは初めての無差別爆撃だった。歴史に残る「東京大空襲」は想像を絶する規模であったが、わが家は目黒に住んでいた為、その被害には遇わなかった。しかし、3月9日の夜は東南の空が赤く明るく、午前2時頃なのに戸外でハッキリと新聞を読むことが出来た。
叔父が明治座のそばに、又父の親友が新大橋の所にいたので、翌朝、自転車に乗って京橋から浜町の方を見に行って見たが、悪臭と焼死体の山、そして肉親を探す人々が目につくばかりで、まったく平常の生活と町並みの目黒から来た私は、その異様感から、ほとんど思考を失ってしまった。
戦場と言うものはこんなものなのかもしれないが、とある街角を曲がったその先に焼野原と焼死体がころがっている。これが現実であり、すぐ隣では極めて日常的な生活が営まれている、と言うのが戦争の実態なのだと感じた。
浜町の2家族と浅草の親戚は、翌日の午後、焼けちぢれた髪と真っ黒な顔と、ほんの手回りの品だけを持って私の家に逃げてきた。何処をどう逃げたかわからないが、運の良い事を喜び合ったものだった。
これと同じ様な「紙一重」の生死の分かれ目を私は再度経験する。それは硫黄島を発進した戦闘機の大編隊が東京の工場地帯を空襲した20年4月7日の事である。
大森海岸の発動機工場に学徒動員されていた私は、P51「ムスタング」戦闘機の機銃掃射を工場の広場で受けた。同級のSと二人で防空壕に逃げ込もうとした時、「ムスクング」は超低空で(ビルの3階位としか思えなかった)急に出現、我々2人に襲いかかって来た。12.7ミリの機関砲特有の重い銃声が聞こえて、壕まで行く余裕がなく、すぐそばの溝の中に倒れ込んだ時、パイロットのゴーグルを着けた顔が正面に見えた。2度3度旋回して射って来る敵機が反転する間をみて、やっと防空壕の中に飛び込んだが、後になって急に恐ろしさを感じた。今でもあのロングノーズの低翼の姿と、操縦士の顔はハッキリと思い出すことができる。
この頃になると東京にいる人は、1万メートルの空から落ちて来る爆弾の方向がわかるようになっていて、冷静に、ある意味では他人事の様に黒いゴマ粒の様な爆弾の行方を判断したものである。何しろ約45秒かかって落ちて来るのだから相当余裕がある。それに反して機銃掃射は射手の顔が見え、その上「自分」が1対1の標的とされていることの恐ろしさがある。私の経験では本当に怖いものである。
その日も空襲が終わり退社時間になったが電車は全部止まりっぱなし。そこで車1台走っていない第二京浜国道を友人と2人で歩いて目黒の自宅まで帰った。夕焼けが美しかった事を思い出す。
「只今」と玄関で帽子を脱いだ時、床にコロッと落ちたのがササクレた機関砲の破片であった。先刻狙われた時のものであり、改めて恐怖を味わい直したものだった。
戦場(東京はこの時点で明らかに戦場そのものだった)に於ける生死の境などこの様なもので、まして当時19歳の私は人並の愛国心と敵愾心はあっても、この戦争に対して勝利の幻想は持っていなかった事も事実である。それこそ、今夜生き延びることができるかどうかという日常だから、朝が来ると又一日が始まると言うただの「カレンダー」の様な毎日を送っていたのだった。
しかし、この後2か月で私の目黒の家のあたりも同様に夜間空襲を受けることとなる。5月24日の山の手空襲である。わが家の周囲も全部焼けてしまい、下町から逃げて来た人の中には2度の災難に遇い全ての物を失った人も少なくなかった。
信じられなく広い、平たい東京の街。やたらに目につく焼跡の金庫の残骸。自宅の焼け跡を掘り起こし何か使えるものが無いか探し回っている人たち。そして、何故か私の記憶の中では焼け付くばかりの太陽の光が、焼跡の瓦礫の中の、むき出しの水道管から流れ出る綺麗な水に差し込んでいる光景が強く残っている。
この頃すでに私は旧制の大学に在籍し、間もなく第2国民兵としての召集が決まっていた。そして本格的な兵役に就く前に、終戦の日を迎えたのだった。
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