掲載日:2023年1月18日
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「実戦には役立たなかった防火訓練」 花村 佳吉(はなむら かきち)
小伝馬町にある私の家は、昭和20年3月9日夜より10日未明にかけての東京大空襲で焼け出されました。ちょうど3月10日は昔の陸軍祈念日なので、敵機B29はそれを機会に狙ってきたのでしょうか。
当時、私は徴用で、軍の倉庫へ勤務しておりました。9日の夕方は、その勤めを終わり、配給のビールを飲み、食事を済ませ、ちょっと横になった時のことでした。
東の海上より敵機来襲との空襲警報が鳴り、急いで防火の準備に入り、鉄兜を被り、消火用縄ばたきを持ち、防火体制に入りましたが、敵機退却との報せで、やれやれと思っていました。ところがそれは敵のカモフラージュで、すぐまた敵機の来襲に遇うことになりました。
私たちは隣組を結成し、毎日のように防火訓練を行っていたのですが、本番になると、その訓練もまったく役にたちませんでした。私は、何百万個と数え切れないほど落ちてくる、ちょうどミカンのような大きさの火の玉を、用意した縄のはたきに水を浸し夢中で消すのですが、消しても消しても綿に油と火の勢いでとても間に合わないのです。多くの人は火を消すどころか、逃げ惑いました。
そのうち、我が家へも火の塊が落ち、近所の家とともに火の勢いで燃え上がりました。また、その時、空より照明弾というのでしょうか、風船玉のような大きさのものが3、4個落ちた瞬間、町全体が真昼のように明るくなり、敵機は低空飛行して、消火している人に機銃掃射を始めたのです。恐ろしくて「これは逃げるより他はない」と思い、小伝馬町の旧十思国民学校にある地下壕へと入り、多くの人と共に、青ざめた顔をして朝を迎えたのでした。
幸い、妻と5人の子供は昭和19年の秋から栃木へ疎開しておりましたので、私は着のみ着のままですが、自分だけ逃げることを考えればよかったのは助かりました。
戦争中の食糧には苦労しました。何せ育ち盛りの5人の子供を食べさせていかなくてはならないのです。普通の配給券は米屋へもらいに行くのですが、特配になると警察署へ行かなければならないのです。それも早く行かないとなくなるのです。妻が朝薄暗いうちから並んで特配をもらいに堀留警察へ行ったようです。
私は弁当を持って仕事へ出かけていたのですが、その金属の弁当箱や指輪、硬貨に至るまで、金属製品は全て献納したため、昼の弁当には板をつないで作った弁当箱を持参していました。ところが、それを盗まれるという悔しい思い出もあります。
それでも、私自身は軍関係の仕事に就いていたため、食べる物にはそれほど苦労はしませんでした。縁故疎開をした子供や妻は、東京とは違い空襲の恐ろしさや治安の悪さを経験することはなかったのですが、いかんせん、田舎ではよそ者扱いです。当然、疎開先の栃木では都会の人間には配給はないわけですから、苦労をしたようです。
戦後すぐに焼け跡にバラック小屋を建て、妻や子供を呼び戻すのですが、疎開先を去る時、長男が「ああ、これで東京へ帰れる。東京へ帰れば胸を張っていられるんだね」と発した言葉が今でも忘れることができない、と妻が言います。子供心にも不慣れな土地での生活には遠慮があり、辛いものだったのでしょう。
幸い、我々家族は、戦後45年経った今も元気で生活しておりますが、戦争で不幸になった人にとってはもちろんのこと、その方々が土台となって、こうして幸せな生活を送ることができている我々にとっても、戦争は辛く、本当に恐ろしい経験でした。2度とあのような悲劇を繰り返すことのないよう、戦争を経験した人間たちは、切に願うのです。
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