掲載日:2023年1月18日

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「爆撃された泰明国民学校を見舞う」 鵜澤 淳(うざわ あつし)

空襲に明け空襲に暮れる昭和19年の秋は、正に断末魔に喘ぐ日本国民の苦しみの毎日であった。同年9月15日、私は都庁にて国民学校訓導の辞令と中央区立明正小学校(当時京橋区立明正国民学校)勤務辞令を受けた。

当時の大学、高専の学生はこぞって海軍予備学生、陸軍特別甲種幹部候補生等に志願し将校任官を目指して入隊して行った。しかし、私は親兄弟なく天涯孤独であったので、進んで志願する意志が乏しく、現役兵として応召する日まで無理に軍隊へ行く気がなかった。故に卒業してから少しでも児童の教師として教壇に立ちたかった。

明正小残留組の児童を担当する先生方は各学年男女合併で1学級ずつであったと思う。口ひげの図工専科、女の先生が2名、30歳過ぎの中堅の先生と私を加えて3名の男の先生が残留していたように記憶する。そして斎藤隆夫校長先生と用務員の中島さんであった。また別の教室に併設の幼稚園もあった。私は5年生の担任を命ぜられ、朝礼の時の全体の指揮や号令をかけたり張り切っていたものである。

現在の港区三田に下宿をし、赤羽橋の電車通りの八百屋さんに住んでいた。毎晩、国民服、巻脚絆で床に入り、枕元にはいつもリュックサックを置いて寝ていた。突如として響く「東部軍管区情報」警戒警報、続いて空襲警報が鳴り響く。爆弾と高射砲のすさまじさに耳をおおいつつ、狭い店先の土間の中に一畳足らずの小さな防空壕に小さくなって身をかがめるのが常であった。

浅草、江東、墨田下町方面の大空一面火の粉が瀧のように降りかかる。その下は、焼夷弾による紅蓮の炎となり、人々の阿鼻叫喚の巷と化してることであろう。学校はどうなったか、京橋区はどうだろうか、気もそぞろに朝を待ち登校する。翌朝は都電も不通、明正小へ行く「永代橋行き」も目黒駅発も来ない。やむを得ず、仲の橋から越前堀までせっせと歩くのみ。日比谷公園、銀座四丁目、京橋、各交差点は爆撃により大きな穴ができ都電の線路はぐんにゃりとひん曲がっている。周囲のビルの窓ガラスは散乱し見る影もないありさま。やっと授業を始めたと思うと警報が響く。すぐに児童たちは防空頭巾をかぶり退校していく。私たちは屋上にて空を眺めたり、周囲の状況を確認する。「ウーン、ウーン」と一種独特のB29の爆音が響いてくる。月島の方角から一斉に高射砲が轟き大空に弾幕を張れども、有効射程4,000mでは残念ながらB29の高度まで届かず、はるか下で炸裂している。校庭にぶつんぶつんと落下して突きささるものがある。鋭角に光るとげとげした破片である。体にささったら即座に死んでしまうものである。

ほとんど毎晩の空襲、私は学校警備と地域住民のために宿直が多く、下宿に帰れなかった。夜中に警報が鳴ると、職員室横の地下室入口の廊下床板を持ち上げ、玄関のドアを開けると町内の人々が殺到する。中には寝たっきりの老人まで歩きだしたという逸話もある。

食糧のない時であったが、八丁堀の電車通りに保存食の干バナナを扱っていた問屋さんがあり、学級の児童を引率して、バナナの選別をする勤労奉仕があった。

朝礼時、S君は口をもぐもぐさせている。よく見ると、梅干しの種をいつまでもしゃぶっている。私を慕い、銭湯で背中を流してくれた人の好い子供の印象が強い。

ある晩、空襲のために急に停電となり、右往左往して困りはてたこともあった。川べりの住宅、商店は全部強制的に取り壊され、空虚な寂しい町と化していった。

昭和20年になって、泰明小に爆弾が落ち、先生方が死亡したとのことで御見舞いに訪問した。校庭側の2階の角に直撃があり、下の職員室にいた2、3人の先生方が即死され、校長室から偶然外へ出た校長先生は難を除れたという。屋上に上がると、爆弾の穴が真下までつきぬけてまっすぐにのぞき見ることができる。

明正小の疎開先である秩父や宇佐美学園から教務主任の小島先生や教頭先生が時々事務連絡にみえていた。

2月になって間もなくの寒い夜、郷里から召集令状が届いた知らせを受けた。

20年2月10日、私は市川市国府台の部隊に入隊した。17日、グラマン戦闘機の攻撃を受けつつ品川駅を軍用列車にて下関に向かって出発した。なんどか朝鮮海峡を渡り、旧満州の守備隊の一員となった。そして8月20日、終戦を迎え、私は部隊と共にシベリヤに抑留される身となってしまった。

昭和23年9月中旬、幸い九死に一生を得て復員することができ、25年より懐かしい中央区の学校に復帰することができた。当時、明正小は戦災のために廃校となり、戦災住宅となってしまった。私は京華小学校に所属したが、明正小は26年9月に復校し、私も職員となり転任することになった。

家内の実家は西八丁堀にあったが、銀座一丁目の営業店ともども空襲でやられ、妹たちは宇佐美学園に、母と小さな妹は信州にそれぞれ疎開し、残った兄姉、家内が復興のために努力をしてきたと聞く。いずれにせよ様々な心身の苦労を体験しつつ、今日の成果を見ることができ、平和への感謝と生命の尊重を忘れることはできない。

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