掲載日:2023年1月18日
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「家を守り、家族を守ることが私の使命だった」 菊田 栄(きくた さかえ)
「寝巻を着て眠りたい」。これが戦争当時、私が強く願い、今でも忘れることのできない思い出の1つです。
夜毎に鳴る空襲警報のために、夏も冬も、風呂を上がった後もゲートルを巻いて床につかなければならない時代だったのですから。
特に冬場は悲惨でした。昭和20年1月27日の大空襲のあった1月は珍しく雪が多く、雪が降ると、皆夜中に起こされて雪かきをさせられ、今の高速道路の下の川へ雪を捨てに行きました。いつ空襲があるかわからないため、とにかく逃げ場を確保しなければならなかったのです。
当時、私は16歳で、昼間は父親の経営する建築業を手伝い、夜は夜間学校に通っていました。友人の多くは徴用や動員に引っ張られて行きましたが、何しろ私の家は兄2人、下に妹が1人の4人兄弟で、長男は出征、次男は亡くなっていたため、私までいなくなると困るという理由で、徴用も動員も免れる夜間学校の甲種に入学したのです。この甲種は技術養成のための学科で、私は建築科を選びました。私には、親や妹を連れて逃げなくてはならない、という使命感がズシリとあったからです。お陰で私は戦時下、両親を助け、妹を守ってやることができました。
この頃、川崎にある軍需工場の寄宿舎の仕事をしていましたが、建築屋という仕事柄、薪を手に入れることができました。その薪を農家の人にあげると、とても喜んで食べ物と交換してくれるのでした。また、家業の得意先が山形にあり、そこからも米・野菜等をいただくなど、食べ物にはさほど苦労なく、米が5合から4合、2合へと減ってはきましたが、腹が減ってしかたがない、という思い出はありません。しかし、1つ悔やまれるのは、親戚が田舎にないので、大事な物を疎開させることができなかったことです。
隣組で作った防空壕の脇へ我が家も木の箱を作って両方から鉄板でしっかり貼って、仕事柄持っている半纏をその中へしまって、きちんと蓋を閉めて保管したのですが、空襲では無事だったものの、すぐ出せばよかったのに1年ほどそのままにしていたため、半纏が全部蒸れてボロボロに破れてしまいました。
あの時代、半纏は貴重品で、半纏があると農家の人は喜んで食べ物と交換してくれたものでした。半纏は木綿でゴワゴワしているため、農家では重宝したらしいのです。
身につけるもの、寝具には苦労しました。特に履物には閉口しました。ズック靴は1年に1回学校で配給してくれましたが、授業といっても兵隊と同じように訓練訓練の毎日のため、すぐ裏のゴムが折れてしまいます。その度に自分で板を縫いつけたりして次回の配給まで我慢して履かなければなりませんでした。
布団の思い出もあります。空襲の時、自分の家の中にも土間を掘って、防水をした防空壕を作り、荷物を入れて母と妹はそこに入っていました。1月の爆撃の時、隣に爆弾が落ち、その影響で防水した防空壕にひびが入り、布団や衣類がビショ濡れになったため、家の前の風呂屋で乾かさせてもらっていたのですが、夜になるとその布団が凍り、昼になり太陽が顔を出すとそれが溶け出します。また夜になると凍り、何時になっても乾かず、幾日も風呂屋に乾かさせてもらっていました。
長男が兵隊から帰ってきたら食べさせてやろうと思って母が貯蔵していた米も、防空壕のひび割れによってビシャビシャになってしまいました。その長男は戦死し、家族の元にはとうとう帰りませんでした。
いろいろな思いをしたと思いますが、皆が苦しかった時代であったから生活できたのだと思います。近所付き合いは極めて良かったと記憶しています。家は仕事がら食べ物にはそれほど苦労しなかったので、近所の人に醤油や米を分けてあげることができました。家の焼ける前日、家が焼けて寝る所がない人が「泊めて欲しい」と言ってきたため、「明日は生きるか死ぬかわからないし、今夜我が家も焼けるかも知れないけれど、いいですよ」と2階へ上がってもらいました。
次の朝、いつの間にかその人はいなくなっており、今でもそれがどこの誰であったかわからない、という笑い話さえあります。
良い、悪いと言っていられる時代ではなかったのです。
我が家は、昭和20年5月25日東京大空襲の最後の日についに焼け落ちました。毎日毎日空襲に遇っていると、自分の家が焼けた時は、何かホッとした気持ちでした。これまでは、自分の家を守ることが私の義務で、それに対して必死でしたが、焼け出されてからは守る必要のある家がないため、何かあれば逃げることだけを考えればすんだからです。
父を除く我が家で唯一の男子であったため、戦後は米軍が進駐したとき、進駐先の施設の修理に建築組合を通じて建築動員が下り、父親の代わりに動員に行った経験もあります。
戦争が終わった時は随分ホッとしました。戦時中の体験によって私は、何があっても人間は生きていけると思いました。
それでも、戦争はもうこりごりです。だけど、本当に辛かったのは、子供を兵隊に行かせた母親たちであったでしょう。わたしの母も今は89歳、兵隊へ行った長男への心配が何より辛かったと思います。
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