掲載日:2023年1月18日

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「蛎殻町で焼かれ、広島で原爆被災」 須磨 末野(すま すえの)

3月10日の空襲の頃、私の家は、下の子が小学生で埼玉県の武蔵嵐山に学童疎開しており、主人は軍需工場の工場長として千葉の勝浦に行っており、あの日の空襲の時は、近所の人と一緒に避難した。主人は材木屋をやっていたが、軍需工場に動員されていたわけである。

「空襲だ!」というので、大八車に荷物を乗せて、命からがら三越の方へ逃げた。まわりは火の海だったが、三越の近くで一夜を明かし、ともかく家に戻ってみようと帰ってきたが、途中、証券取引所が焼け残っていて、炊き出しの配給をしていたので、これを貰って朝御飯にした。炊き出しの御飯を食べ終わってから家の方へ行ったが、どこも焼け野原、我が家も完全に焼け落ちて、わずかに木材をおく林場(リンバ)の下の方がくすぶって残っていた。

家が焼けてしまったので、今後のことを主人に相談しようとして勝浦に向かった。電車も動いていないので、仕方なく総武線の線路を歩きだしたところが、亀戸のガードのところまで来たところ通行止めにあった。

なんだろうと思って見ていると、その近くで死体を火葬にしているところであった。そこへは、自動車や大八車で次々に焼死した人の死体が運ばれ、焼かれていた。全く「悲惨な光景」であった。結局、市川まで歩いて、なんとか電車に乗ることができて、ようやく勝浦までたどり着いた。

主人と話をして、一応、広島市郊外の親戚を訪ねることにした。そのため、武蔵嵐山に学童疎開している下の子供を連れ戻したが、シラミが体中いっぱいで大変だった。

鈴なりの東海道線にやっと乗り込み、ようやくのことで広島に着いた。
親戚の家に一応落ち着いたが、それも束の間、8月6日のあの原爆投下でまた大変なことになった。広島の家は爆心地から離れていたので、全壊にはならなかったが、ガラスは砕け、部屋のカーテンがハタキのように裂けていた。鍋ややかんが全部外に飛び出し、ミシンが大家さんの八畳間の押し入れに飛び込んでいた。外に飛び出してみると、大きな入道雲がムクムクと立ち昇り、やがて雨が降ってきた。

後から知ったのだが、あれが放射能を含んだ雨だったわけだ。

長男は中学生で、毎日、広島県庁近くの強制疎開をする民家の取壊し作業に行っていたが、たまたまこの日は、体の調子が悪くて家で休んでいた。もしも、あの日、作業に行っていたら完全に犠牲になるところだった。

しかし、学校からの要請で、学友たちを探しに行くことになり、ランニングシャツを着せて出したが、結局、原爆の爆心地の近くを探し回っていたわけで、帰ってきた時は、着ていたものは真っ黒でボロボロになっていた。

このために、長男は原爆症になり、これを治すために、終戦直後に当時の金で百万円をかけることになった。長男の話では「爆心地の近くには全く何もなく、人々は着ていたものがボロボロで裸同然の姿でゾロゾロ歩いていた。そして、その人々の多くは、やがてバタバタと力尽きて死んでいった」という。

東京に帰って来たのは9月20日ごろで、焼跡の掘建小屋で暮らした。翌年の秋ごろになってやっと主人が帰って来て、材木屋を始めた。戦後の復興の波に乗って材木屋の商売は忙しかったが、今はダメで、とうとうこの界隈で材木屋は私のところ1軒になってしまった。

戦争は、直接被害にあった人でないとなかなかわからないかもしれないが、全く恐ろしい。もう、2度とこんな目に会いたくない。

当時の原爆の跡を見ない方は、話をしてもわからないと思います。5年前を思い出しても恐ろしく悲しいです。

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