掲載日:2023年1月18日

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「戦争と私」 野村 和子(のむら かずこ)

中国との戦争支那事変が始まって、大東亜戦争が昭和16年12月8日に起こり、真珠湾攻撃から順に勝ち戦と思っていたら昭和20年8月15日の終戦となり、惨めな日本の生活が始まり、現在の平和な日が来ました。小学校から女学校まで戦争体験者となりました。最初は南京陥落など、勝ち戦の時は提灯行列、旗行列に兄と手を繋ぎ宮城まで歩きました。高松宮様、三笠宮様がお立台に立たれ、国民と共に万歳を叫んだ事が思い出されます。その頃花電車が美しく電球の光に飾られ、夜の銀座の路線を眩しいほど鮮やかに、そしてゆっくり走って行きました。車庫は青山、新宿でした。みんな手をたたき喜びました。

昭和17年4月20日頃、B29の米軍機1機がネズミ色の大型機で、突然空襲警報が鳴る前に飛んできたのです。本土へ入ってから空襲警報が鳴ったのです。私は銀座へお使いに行くバスの中から築地本願寺上空を飛んでいる大きな米軍機を見たのです。日本軍は何をぼやぼやしているのかと停車したばスの中で思っていました。偵察機だったと母はラジオで聴き、私に教えてくれました。

昭和19年、まだ学徒動員が指示される前、永田町小学校へ学校から20名が農村勤労奉仕の講習会へ行きました。帰る途中、警戒警報のサイレンと同時に米軍機来襲。慌てて地面に伏せた時、男の人が私の腕をしっかり掴まえて、防空壕へと連れて行って下さいました。心臓が止まりそうな恐ろしい事でした。国会議事堂前の所で、その人のお陰で命が助かりました。私は笑顔で「ありがとうございました」と言って警視庁前まで走り、その方の名も聞かず都電に乗って母の待つ家へ帰りました。この頃の5月、銀座が焼かれ、歌舞伎座、演舞場の舞台が爆撃されたのです。このことは涙が出るほど情けなく悔しく思いながらも、日本の勝利を信じました。近所が1軒1軒疎開するようになり、友達の家も学校の先輩までも田舎へ行ってしまい、「疎開しないの」と聞く私に、母は「行く所もないし、死ぬ時はみんな一緒でね」。その言葉に町を守る心が決まりました。

動員命令が下り、下級生の鼓笛隊に送られ、しっかりと日の丸鉢巻きを締め、足音高く勇ましく、軍人さんに負けぬ心意気で工場へ入りました。工場(現:江東区東雲・日東鉱工)は初め通勤バスが築地へ迎えに来ましたが、木炭車だったので橋の上になると全員が降りバスを押すのです。木炭車とはガソリン節約のために、炭の燃力で炭俵を後ろに乗せて走るのです。

戦時下は「欲しがりません勝つまでは」と歌い、「贅沢は敵だ」と言って現在の和光のショウウィンドの中に大きな紙に書かれ、頭蓋骨と飾られてありました。前を通るのが怖く思いました。

物資も無く戦争も各地で玉砕が続き、食事も貧しくなり、工場も雑炊、炊とん、短麺、実のないお味噌汁、大豆、昆布、大根、芋、コーリャンの入った丼飯でしたが、文句も言えず働きました。1か月40円貰いましたが、寮の費用が引かれ、わずかな小遣いが残り、それも献金したこともあります。木曜日ぐらいになると、私は軍隊のトラックに内緒で築地まで乗せて貰い、家へ走り、母に食べる物を急いで包んで非常袋へ入れて貰い、東劇の所でまたトラックを待ち、乗って門衛に見つからぬようシートの中の荷物の間に隠れ、息をひそめて友の待つ寮へと戻るのです。

市場が地元のお陰で何とか助かり、母が作った蒸しパン、炒ったお米、豆などを持って寮へ帰りました。翌日の休憩時間に2年下の男子学生(越中島・都立三商)に上げますと「お姉さん、有り難う」とニコニコ嬉しそうでした。翌週は手の荒れ止めクリームを持ってきて「お母さんから」と言って私にくれました。その子たちのズボン、袖のほころび、ちょっとした怪我の手当もしました。看護婦さんまでいなくなり、級友が熱を出したり、背中に大きな傷ができた時は軍医さんに頼んで来て頂き、兵隊さんは優しく、コンペイ糖の入った乾パン等を下さり1袋をみんなで食べるのです。明日は死ぬかも知れぬ日々です。

疎開する友が多くなりましたが、助け合って頑張りました。泣く時は布団の中でした。

小学生も学童疎開に行き、食糧と医療に困ったと先生は言っていました。

工場も2月19日、3月9日の大空襲で無残な姿になりました。

2月の時は昼で、逃げる人々は低空からの機銃掃射でバタバタ倒れ、3月9日の夜の空襲は強風が吹き防空壕の入口の木材の蓋は燃え、着ていたたった1着のオーバーで火を叩き消し、10名が助かりました。

オーバー無しの生活になりました。靴の底もすりへって穴があき、炊事場で使用していた左右高さの違う高歯を借りて家へ帰りました。忘れられぬ思い出です。

焼跡の整理はモッコ担ぎの土方作業で、小さい私はくたくたになりました。全てがお国のため、天皇陛下のためで我慢です。苦痛な時、悲しい時、10号地の海へ向かって「お母さん」と叫びました。

兵隊さんも「お母さん」と言って戦死なさったとか。戦争は決してやってはいけない。学生は銃を持ち、本を捨て命を捨てたのです。国民は父を、兄弟を失い、女性は看護婦として戦場へ髪を切って行ったとか。平成の年も平凡で良いから平和な生活を守ってゆきたいと祈ります。

有楽町駅の爆撃で命を失った都立三商の男子学生(中学2年生)のご冥福を心からお祈り申し上げます。土曜日の午後の帰宅途中の出来事で、日曜日の午後4時までに工場に戻る予定でした。

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