掲載日:2023年1月18日
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「戦中派と言われる私の体験」 根本 幸子(ねもと ゆきこ)
昭和3年2月16日、私は「京橋区南飯田町」において生まれました。以来、幸せにもこの区内を動いていないのです。
今の「明石小学校」4年生になる前の春休みに、区内の新佃島東町に移転し、懐かしい「佃の渡し船」で毎日通学し、昭和15年の春卒業し、桜の花弁の「ひらひら」舞う4月、まだ多少のどかさの残る、旧制5年制の麹町三番町に校舎のある女学校に希望に満ちて入学しました。長引く満州事変に、そろそろ物がなくなり始め、新調した制服は純毛ではなく、いわゆる「スフ」入りでした。夏、冬1着ずつの制服を「つぎ」を当てながら5年間大事に着ました。
やがて急速に物資は不足し、総ての物が配給制度となり、お米・小麦粉・砂糖・塩・味噌・醤油・日用品総て大切に少しずつ使用せざるを得なくなりました。芋の飯・すいとん・雑炊、育ち盛りで学校に通う私のお弁当箱の「大豆入りの飯」は、カバンの中で何時も片隅に寄っていました。
第二次世界大戦に突入してからは、女学校は3年生で通常授業は終わりを告げ、英語は敵国語として廃止され、私たち女学生、男子中学生は首都東京を守るべく「学徒動員」され、学校工場として沖電機の電信器のメーター取り付け作業に従事する事となりました。
朝、登校して朝礼を終わり、2時間勉強し、それから作業にとりかかり1日を終わる毎日でした。常に防空頭巾を背中に、もう「カバン」ではなく、布で作った下げ袋の中に非常食やら、三角巾等を入れ、薬は「赤チン」だけだったと思います。制服の下は「もんぺ」で、靴がなければ下駄でもよいと学校側に言われた次第です。当時、私は市電で通学しておりましたが、楽しみと言えば土曜日の帰り、級友とおしゃべりをして、2、3の停留所を歩くのが唯一の楽しみでした。本当に懐かしい思い出です。それでも、それなりに充実した青春を悔いてはおりません。
その青春の最後に1番哀しい事が起きてしまいました。昭和20年3月の卒業を控え、あの3月9日夜の東京の大空襲。
B29の鈍い爆音と、けたたましく鳴る空襲警報のサイレンの音に、着のみ着のままで寝ていた私は「はっ」と目覚め、表通りの防空壕に飛び込んではみたものの、外の喧噪に、もうどうなってもかまわないと変に肝が座って飛び出しました。その時すでにサーチライトが飛び交い、高射砲の音と、B29より落下する焼夷弾が、まるで電気花火のようにバラバラと遠くの空より落ちていくのが見え、高射砲の弾に当たって空中分解して火の玉となって落ちていくB29の米機をわれを忘れて見ておりました。
ふと、隣近所の人々の叫びに指さす方向を見た私は、真昼のように真っ赤な火の手をあげて燃える深川方面全域を、唖然として眺めていました。
「危ないぞー、火を消さなければ」の声にあたりを見ると、あの長い「相生橋」を越えて火の粉が屋根に落ちて来るではありませんか。用意されていた荒縄で作った火ばたきを、1晩中バケツの水に浸しては消しました。やがて白々と夜が明けて来た時、17歳の乙女だった私は夜さえ明ければ何とかなるように思いました。その夜を最後に下町一帯、一面の焼け野原となったのを知ったのは数日後、学校が心配で自宅から相生橋を渡り門前仲町-永代橋-茅場町-日本橋-呉服橋-大手町-小川町-神保町-九段-三番町まで歩いてやっ、と学校へたどり着いた時、見るも無残に鉄筋の校舎が焼けただれた姿を目にし、思わず涙でくしゃくしゃになりました。
帰りはどうやって家路をたどったか未だに思い出せません。その後、門前仲町から、卜ラックに乗って何とか学校に行った記憶があります。これから先、一体どうなるか見当もつかぬまま、3月24日焼け残った運動場で泣きながら卒業式を迎えました。幸いなことに「卒業証書」は学校側が金庫に入れて助かり「卒業アルバム」は、写真屋さんが防空壕に入れて助かりました。ただ1人、浅草に住んでいた級友が最後まで来ませんでした。未だに・・・・もう此の世にはいないと思っています。朗らかな友だったのに残念です。
月日のたつのは早いもので、夢のように45年が過ぎ去りました。今、ネオンまたたく銀座の灯を見る度に、あの暗かった街が嘘のよう、戦争に負けて皆幸せ、これで良いのだろうかと思いながら、つくづくと平和の有難さをしみじみ噛みしめております。
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