掲載日:2023年1月18日

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「同じ苦労をともにした仲間たちのつながり」 福田 錦二(ふくだ きんじ)

私の疎開生活は昭和19年8月21日、私が国民学校5年生の時に始まり、21年1月半ばまで埼玉県北足立郡桶川町(現 桶川市)にある知足院というお寺にお世話になりました。
久松国民学校の5年生は光照寺と本学院、医王寺、知足院の4か所に分かれて疎開しました。私たちの知足院は、5年生の1組の男子と3組の女子の計44名の混合疎開でしたが、これは後に聞くところによると、同学年の男女が1つのお寺に寝泊まりするのは当時としては珍しいケースだったようです。
先生方は、山田先生と森(現:佐藤)先生を中心に、東京から同行された寮母さんの別所さん、そして地元から保母さんとしてみえた鈴木さん、久喜さんの5人が約1年半もの間、私たちの面倒をみてくださいました。村の方々は非常に協力的で、子供心に印象に残ったのはご近所の農家の関根さんと町長の熊井さんです。とにかく多くの人たちに支えられて、私たち44人の疎開生活はスタートしたのでした。
何といっても思い出に残るのは、1週間に1度の桶川国民学校への登校でしょうか。最初は毎日のように登校することになっていたのですが、とにかく田舎道をトコトコ30~35分もかけて歩かなければならないのです。食べ物は当然不足しておりましたから、多少栄養失調気味だったのでしょう、30分以上をかけて通学し、学校へ着くともうくたびれていました。
行った当初は夏場だったので、それでも元気に通ったのですが、冬になると雪が降り、寒さと、時間がかかるのとで都会の子にとっては辛く、1時間目の授業に間に合わず受けられないのです。そのため、急きょ本堂に畳を敷き、机を並べて勉強することになったのでした。
雪の日の登校は本当に辛いものがありました。疎開中3から4回あったでしょうか、同じ疎開児童でも長靴を持っている子と持っていない子がいるので、それは平等でなくてはならないと、全員雪の上を裸足で歩いて登校させられました。もうそれは足がしびれて、全く感覚がなくなるのです。東京っ子にとっては辛い思い出です。
そういうことがあり、20年の2月か3月頃からは全く学校へは通わなくなりました。
国民学校へ通っていた頃は、男女別に地元のクラスに編入し、一緒に机を並べました。しかし、どうしても都会の子と地元の子同士がなじめず、嫌がらせをされたりした思い出もあります。実務に関しては、地元の子より私たちの方が優れていたり、また、私たちが1時間目に遅れて行ったりするので、地元の子たちもあまりおもしろくなかったのでしょう。
学校自体の設備そのものも久松国民学校に比べて多少劣っていましたが、運動場は広く、久松のようにコンクリートではなく土でできていました。
体格は地元の子の方が優勢で、腕相撲やおしくらまんじゅうでは負けました。勉強では私たちの方が手を上げる率が高く、多少進んでいたようです。
ですから、東京っ子に対する偏見もあったのではないかと思いますが、関根さんをはじめ町長さんや村の大人の方々がクッションになって、うまく交流できるように尽くしていただいたにもかかわらず、耐えきれなかったのも学校へ行かなくなった理由の1つではありました。それでも、月に1度くらいは自転車に乗れる人間が、帳面や鉛筆、消しゴムなどをもらいに学校へ行くことはありました。
このように、学校へ通学しなくなってからは丸1日をお寺で過ごすことになるのですが、寝泊まりは本堂で、襖など何の隔たりもなく右と左に男女分けて行い、本堂の前の廊下に机を置いて勉強をしました。

冬のトイレはみんなが嫌っていました。本堂を通って夜にトイレヘ行くのですが、寒いのに加え怖いのです。中にはトイレまで行かず、廊下でおしっこをしたりする者もいました。
いろいろな仕事が当番制になっているのですが、冬の雑巾がけはみんなが嫌がる仕事の1つでした。人気のあるのは冬のトイレ掃除で、それだけはお湯が使えたのです。
今のように陰険ではありませんが、当時も子供同士でいじめはありましたので、それに耐え兼ねて脱走した者が5人くらいいました。というのは、子供の世界ながら10人ずつくらいの派閥があったのです。まるで猿山の猿の世界のように、ボスがいまして、そのボスが疎開中3人代わりました。1人のボスは約3から4か月主導権を握り、次へ政権が交代するのです。いじめは食べ物に関することが多かったようです。例えば、自分がお腹をこわしていると、当然量を減らすか、お粥にするのが決まりだったのですが、ボスはそれを許さないのです。他の者と同じ物を同じだけもらい、食べるような振りをして、新聞紙に包んでボスにあげなくてはならないのです。そうしないと後でボスにいじめられるのです。
また、比較的久松からは近かったこともあり、お母さん方が食べ物を持って面会に来るのですが、それを1番にボスにあげなくてはならないのです。そこで私など要領のよい人間はボスにチヤホヤしてうまくしたものですが、そうできない者がいじめにあったようです。脱走は地元の国民学校へ行かなくなってからの出来事ですから、学校でいじめられるよりボスにいじめられる方が辛かったのでしょう。しかし、殴る、蹴るというような体罰はしませんでした。暗黙のうちの睨みが怖かったのです。

珍しい同学年の男女混合の生活でしたので、男女一緒に行動することが多かったのですが、お風呂も順番は違いますが同じ風呂桶に入りました。女子が入っている時に男子が風呂を焚くようなことも日常茶飯時で、今になって「もう少し年をとっていたらな」などと、友人と笑い話をするような思い出もあります。
農家に自由に遊びに行くことは許可されていましたから、3から4人のグループでよく近所へ遊びに行っては、お手伝いの麦踏みをし、ご褒美におにぎりをいただきました。そのおにぎり欲しさにきっとお手伝いに行っていたのでしょう。関根さんの家をはじめ、近所の農家にはほとんど顔を出しました。
おにぎりは欲しくて仕方がなかったけれど、それほどお腹を空かしていたわけではなかったと思います。いつも芋の入った雑炊でしたが、ほとんど白いご飯が入っていました。おかずはかぼちゃの葉や茎などで、最初は抵抗がありましたが、じきに慣れました。
また、疎開児童の中に魚屋さんの娘がいたので、そのお父さんが1月に1度は差し入れしてくれましたので魚を食べることはできました。自分たちで獲ってきたドジョウを食べたこともあります。
風呂は2日に1度は入れました。下着類だけはそのお風呂に入った時、自分で洗うのです。

みんなもそうでしたが、私自身東京で生まれ育ち、田舎の生活はほとんど経験がなかったものですから、東京の生活とのギャップで最初は戸惑いました。まず衣類ですが、久松小ではきちんと制服を着込んで通学していたのが、疎開先では毎日ランニングシャツと半ズボン姿で、それに馴染むのに時間がかかりました。そして、裸足で歩くことと木登り、力仕事、夜の寂しさ、蛇などへの恐怖――これらに戸惑いを感じたものです。
疎開先で東京大空襲を知らされたのですが、何故か私は「両親は絶対大丈夫」だと思いました。「もしかすると自分の家だけは焼けていないのではないか」とさえ考えました。
実際は、久松一帯は全滅、それを聞いた時は男子ながら泣きました。しかし、両親は元気で生き延びることができました。疎開仲間の7人が親を亡くし、内2人は両親ともに死にました。疎開先で、先生が個人的に呼んで状況を話されるのですが、2から3日は空白の時間でした。授業も頭に入らなかったようです。
このようにして、私たち44人は昭和21年1月まで一緒に生活を送り、それぞれ家族に迎えられ、東京へ引き揚げて行ったのでした。私は兄が迎えに来てくれました。
やはり、同じ釜の飯を食い、家族のように暮らしたせいか、今でも必ず1年に1度は全員が集まり、もっと小グループでは頻繁に会っております。戦争は絶対いけませんが、同じ苦労を共にした仲間というのは、こういう時にしか生まれないのではないでしょうか。全員が1つの目標を目指して生きていく、これは非常にエネルギッシュなものだと思いました。

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