掲載日:2023年1月18日
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「横山町で2度も焼かれる」 金井 精一(かない せいいち)
私の家は、昭和20年の2月25日と3月10日の2回、同じ横山町で焼け出されている。私は2月の時はたまたま不在だったが、3月は被災を体験した。
私の家は「丹波屋」といって、元禄3年(1690年)、現在の所で煙管問屋を創業、以後、時代の変化とともに、パイプやライターなど関連商品も扱うようになったが、ずっと喫煙具製造問屋であった。
私は昭和18年9月、安田商業学校(旧制)を繰り上げ卒業したが、勤労動員に行っていた関係で、引き続き千葉県下総中山の鈴木精密機器という工場に勤めていた。商業出身なのに、仕事は旋盤工のようなものだった。
私の家が焼けた昭和20年2月25日は、東京では珍しい大雪が降った日だったが、私は中山の工場に出勤していた。
午後2時過ぎ頃、「東京の下町が爆弾でやられたらしい。君の家の方らしいから、帰っていい」と会社の人から知らされた。
すぐ省線(いまのJR)に乗った。ところが電車は両国駅でストップしてしまった。電車を降りた。雪はまだどんどん降っている。気が急いて私は駆けだした。両国橋の上が雪で真っ白になっている。滑って何度転んだことか。
小菅ビルの前まで来た時、横丁の中から、こっちへ駆けて来る父の姿が目に入った。カーキ色の警防団の格好で、元気な顔だ。怪我もなく無事だったのだ。
だが、父は私の肩をつかむなり「セイちゃん、焼けちゃったよ」と言った。「えっ」と、父の肩越しに我が家の方を見ると、無残な焼跡が見えた。黒焦げの材木がまだくすぶっていた。がっくりした。急に目の中がぼうっとしてきたが、「ヒイちゃん、お前のレコード助けたよ」そう言って、父は笑顔をみせた。すごく嬉しくて、涙が出た。大通りの9番地で、親戚の女の人が小間物問屋を開いていて、そこが焼けずにすんだので、とりあえずその家に避難しているということだった。そこには伯母も元気でいた。私の母は3年前に亡くなり、我が家はひとり息子の私と伯母と父の3人暮らしだった。
父の話だと、横山町から馬喰町一帯にかけて焼夷弾が相当に落ちた。木造の建物ばかりで、衣料問屋街だから、火の手はアッと言う間に拡がり、とても消火活動などできる状態ではなかった。それでも昼間のことだからほとんど怪我人らしい怪我人は出ずにすんだという。
我が家は直撃でなく、延焼するまでに少し時間があったので、リヤカーで2回ほど家財を大通りに運び出す余裕があったということだった。その中に、私が大事にしていた蓄音機とレコードがあった。戦争がひどくなってからは、私の毎日は、家と工場を往復するだけだった。工場から疲れて帰ってきて、寝床の中でレコードを聴くだけが、その頃の私の唯一の楽しみであった。
レコードは数十枚あったが、全部運び出してくれてあった。蓄音機は昔の手巻ゼンマイ式のもので、相当な大型だ。空襲と火事騒ぎの最中というのに、この重いものを、父は2階の私の部屋から担ぎ出してくれたのだ。その父もすでにこの世を去ったが、こういう話をすると、あの時の笑顔が浮かんでくる。親というものは、本当にありがたいものである。
その夜は、狭い1部屋に3人並んで寝たのだが、父は「セイちゃん、しかたないよね。あきらめようよ」と静かに言っただけだった。いかにも江戸っ子らしいいさぎよさだった。
翌朝、我が家の焼跡に行った。風が北西方向に吹いたせいか、横山町の南西部から馬喰町にかけて全部焼けていた。
焼け出されて、3人で近くの親戚の家に引っ越して、それから毎日どうしていたのか、さっぱり記憶がない。工場は休んだはずで、家にいたのだが、折角、父が助け出してくれたレコードも聴いたのかどうか記憶がない。
3月9日の夜は、警戒警報の出た時は、まだ家にいた。空襲警報が鳴ってから、近くの小菅ビルの地下室に避難した。5階建ての頑丈なビルだから、通りにある防空壕より安全だと思った。この前の火事の時、父が真っ先に持ち出した大事な物は全部運び込んだ。それは、先祖代々の過去帳、位牌のほか、新玉稲荷のご本尊だった。
過去帳は何百年前からの古いもので、代々の家訓として「いの一番に持ち出すように」と申し継がれていた。関東大震災の時も金庫の中で焼けずにすんだが、まわりが焦げたようになっていた。
ご本尊は、江戸時代から続いた町内のお稲荷さんで、祠(ほこら)が私の家の地所にあったので、代々お預りしてきたものだった。
それに布団や毛布を少しばかり、リヤカーに積んだ。もちろん私の宝物であるレコード、蓄音機も忘れなかった。
地下室には近所の人も逃げてきて、全部で10人ぐらいだった。
時々、だれかが外を見に行って「どっちを見ても、みんな焼けている」と帰ってきた。
「もう、今夜はここで籠城するしかない」みんなが覚悟を決めた。
5階に上ってみると、遠くの方に母校の千代田小学校の焼けている姿が見えた。あの学校は窓の上部が円形になっている。そのしゃれた窓枠が赤い火の中にくっきり見えた。
眼の下を1台の消防自動車が明治座の方に走って行った。自動車の後ろの方が燃えていた。運転手ひとりだけだった。火の粉が左右二手に分かれ、それが勢いよく舞い上がる。道路一面が火の粉の海で、車はその海をかき分けて走って行くのだ。凄かった。そして、火の粉の舞い上がるさまは凄くきれいだった。
それから、いつ地下室に戻ったのか、父たちがどうしていたのか、いつ眠ったのか、はっきりした記憶がない。
父に体をゆすぶられて目を覚ました。とっくに夜が明けて、もう11時になっていた。まわりには父と伯母のほかだれもいない。それぞれ立ち退き先を探して出て行ったという。
父は、無事かどうかわからないが、とりあえず九段下の親戚に行ってみようと言う。
外に出ると、近くのおばさんが防空頭巾、モンペ姿で、道端にひとりで立っていた。普段はきれいにお化粧した美人だったのに、顔はすすけて、ボロボロな感じだ。鍋の木の蓋のようなもの、それだけを手に持っている。本人は気づいていないようだ。明治座に逃げて行ったのだが入れなくて、ひと晩中あちこちを逃げ回り、帰ってきたのだと言う。「おうちのほかの人はどうしたのか」と聞いても要領を得ない。言うことがしどろもどろだった。ひどい恐怖のあまり、あるいは一時的な精神錯乱状態になったのだろう。
須田町に来ると、そこは焼けていなかった。不思議な気がした。おそば屋さんが1軒、目についた。途端に、お腹がぐうぐう言いだした。店の中にはだれもいなかった。
「なにか、食べるものありませんか」と父が声をかけると、店の人が奥から出てきてお茶を入れてくれた。椅子に腰掛けてすすったその熱い番茶のなんとおいしかったことか。そのうち、お握りをお盆に乗せて出してくれた。白米だった。味わうなんて余裕のあらばこそ、あっと言う間に、私は立て続けに3個食べてしまった。一目で焼け出されたとわかったのだろう。父が「お代を取ってください」と何度頼んでも、受け取ってもらえない。ついに、丁寧にお礼を言って外に出た。手を合せて拝みたい感謝の気持ちだった。父がしみじみ言った。「ありがたいねえ、人の情けが身に沁みるねぇ]そして、ポツリとつけ加えた。「焼けない人が羨ましいねぇ」
戦災に関して、父から愚痴めいた言葉を聞いたのは、これ1回だけであった。
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