掲載日:2023年1月18日

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「深川地区の惨状に思う」 勝又 康雄(かつまた やすお)

私は空襲でそれほど直接的な被害は受けていない。東京大空襲のあった昭和20年3月10日には、有楽町、銀座あたりの被害状況を見たが、ひどくやられたという印象がない。それは、翌11日、深川へ人探しに行って、筆舌に尽くし難い惨状を目の当たりにし、そちらの方が強く心に焼きついたからかもしれない。

当時、私は金沢八景の近くに住んでいて、銀座二丁目にあった勤め先の高島屋飯田に通っていた。3月10日の朝は、東京がそれほどやられたということは知らず、普段のとおり朝7時過ぎに家を出た。

京浜急行で日の出町まで来た時、空襲警報が出て電車から降ろされた。近くの防空壕に退避していると、艦載機が数機やって来て機銃を乱射した。バリバリ、ズシンというもの凄い音で、さすがに恐かったが、幸い誰1人負傷者は出なかった。退避中に「東京がひどくやられたらしい」という話がでて、「これじゃ、会社も危ないかな」と、その時初めて思った。

そして、有楽町の駅に着いて私は愕然とした。あちこちが焼けているではないか。焼跡には、まだ白い煙がくすぶっている。その中の道を私は会社へと急いだ。
高島屋飯田の本社ビルは鉄筋コンクリート建てで無事だった。しかし、裏の3階建ての木造倉庫は焼夷弾の直撃を受け、青空天井になっていた。2階、3階の品物が1階に落ち、渦高く積み重なっていた。それらはまわりが黒く焦げ、まだくすぶっているのもあった。

私たち若い社員3人が頭から水をかぶって倉庫に入り、品物を取り出した。それから全社員総出で本社屋上に品物を拡げ乾かした。1日がこの仕事で暮れた。家に帰り着いたのは夜9時過ぎ、玄関を入るなり、その場に倒れてしまうほど疲れていた。

翌日は午前8時30分の定刻に出社した。深川・森下町に住む庶務課の女性が出勤していないので、同僚の若い女の子が様子を見に出かけた。しばらくして、その子が泣きながら戻って来た。焼け死んだ人が道にゴロゴロしていて、とても怖くて歩けないと言う。それで私が自転車で出かけた。

永代橋を渡って深川に入った。言語に絶ずる悲惨な状況だった。見渡す限りの焼け野原、道端には、まるで人形でも置いてあるかのように遺体が散乱していた。その惨状はとても説明する気にはなれないが、五体満足でない遺体もずいぶんあったように覚えている。

ところどころ、遺体の上になにやら白い紙切れみたいなものがのっている。近づいて見るとお題目が書かれた紙が石でとめてあった。胸がこみあげてきて、涙が止まらなくなった。

掘割りには、遺体が何十も浮かんでいた。火熱で川の水が蒸発したのだろう、2、3隻の小舟が水面すれすれに沈んでいた。その舟べりをつかんだままの遺体もあった。

結局、その日は消息がわからなかったが、1週間ほどして森下町の女性社員が出社して来た。気の毒に、髪の毛が焼けてチリチリになっていたが、みんなで無事を喜んだ。

その女性社員は、家族みんなで川のそばに逃げ、そこで夜を明かした。そこには全部で十数人がいた。強風で火の粉が飛んできて、着物が燃えだす。熱くて、いっそ川の中に飛び込もうかと何度も考えたそうだ。お巡りさんが1人いて、長い紐をつけたバケツで川の水を汲み上げ、みんなに掛けてくれた。何時間も休むことなく、それをしてくれた。「助かったのは、あのお巡りさんのお陰です」とその子は涙声で話した。
戦前の東京には、大きな川が市内を流れ、たくさんの掘割りもあった。森下の子のように、そのお陰で助かった人も大勢いたに違いない。それが戦後、ほとんど埋め立てられてしまった。風情がなくなったのは、時の流れでやむを得なかったと諦めるにしても、災害防止の点では問題を残したと思う。

もうひとつ、銀座地区で比較的被害が少なかったのは、本所・深川などと比べて、圧倒的に耐火建築が多かったせいだと思う。もう戦争はないと思うが、大火事はいつ起こるかわからない。あれから45年経った。今後の災害対策として、東京大空襲の教訓が果たして生かされているのだろうか。

私にひとつの提案がある。それは、もし地下水が出たら、その水を大切に用いて街々に浅く細くてもよいから、絵になるような流れをつくることだ。防災と景観と自然や地域の歴史を残すためにも。

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