掲載日:2023年1月18日
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「火炎が川を渡ってやってきた」 中野 耕佑(なかの こうすけ)
日本橋小網町は、関東大震災の時まで小網町一丁目~四丁目及び小網仲町と5つの丁目があったが、区画整理で3つになり、現在では丁目がなくなった。空襲で罹災したのは、旧三丁目だけだった。それも直接の焼夷弾攻撃を受けたのではなく、隣の町からの飛び火である。
私は当時の中学1年生で、学校は東京であったが、母と一緒に埼玉県鴻巣の母の実家の近くに疎開して、学校へは高崎線で列車通学していた。このため、罹災した3月9日夜から10日朝の様子は、10日の朝、鴻巣から小網町の家に駆けつけた時に父と兄から聞いた。
私がその時見た我が家は、既に焼け落ちており、店先に積んであった炭やタドン、煉炭が焼け、まだ真っ赤になっていた。
ところで、我が家を焼かれて避難した父と兄が家から持ち出したのは、仏壇のご本尊と先祖代々の位牌だけであった。それほどに、その時の火のまわりが速かったとのことである。
夜半からの空襲は、日本橋川の対岸の茅場町や新川などに焼夷弾を集中的に投下したので、この地域は火災に包まれ大変な大火になった。だが、その日は、小網町側には落とされず、初めはそれこそ川向こうの火事で終わりそうだと、町の人たちもみんな思っていたようだ。
いつもの日よりも、この晩は風はあったが、対岸の茅場町あたりの火災が、川幅30メートルもある日本橋川の川面を渡り、小網町をひとなめにするとはだれも考えなかった。ところが、B29からの焼夷弾投下も終わり、対岸の大火も盛りを越したかに見えた頃から、それまでの風が突風に変わり、火災が横に這うようになってきた。火の粉が川を渡って小網町に飛んできはじめても、「まさか」「大丈夫」という気持ちが強くあって、家財道具を持ち出してまでも避難しようという人はほとんどなかったようだ。
やがて、町の人たちが、ますます強まる突風に危険を感じて「このままでは、この小網町も焼けるのでは」と思った時には既に遅く、火災は渦巻くようにして日本橋川を渡り、アッと言う間もなく小網町の家々をなめ尽くしてしまったようだ。
こうして、1発の焼夷弾も投下されなかった旧小網町三丁目が焦土と化したと聞いた。「ボッと全部の家が一斉に火を噴き出したようで、自分たちがそこから逃げ出すのが精一杯だった」と、よく話してくれた父だった。
今はそれを如実に物語る証拠が我が家に残されている。仏壇からやっと持ち出したこのご本尊と先祖代々の位牌である。
我が家が焼けた3月10日も深川の学校に自転車で行ったが、隅田川を渡って、新大橋通りの三つ目通り交差点から住吉町まで行くと、道端のあちこちに多くの人が黒焦げになって死んでいた。
大横川に架かる菊川橋はやや高くなっているが、前を自転車で行く人が、自転車を降りて、その自転車を手で押して渡って行った。私もそこまで自転車に乗って行ったが、タイヤが滑って登れない。よくよく見ると、橋の上で焼死した沢山の人から流れ出た脂であった。仕方なく私も自転車を降りて歩き、その足が幾度か脂で取られそうになりながら学校まで行った。橋の上から大横川を見ると、川の中も川面が見えないほどに死体がいっぱいであった。学校へ着いてみると、防火用水に使われていたプールの中にも、火災に追われて飛び込み、亡くなった人々の死体がいっぱいあって、どぎもを抜かれるように感じた。
平和な時代にあんな光景を見たら、足が竦んで1歩も歩けなくなると思うが、あの荒んだ時だったから、それからも、この道を毎日学校へ通った。
我が家は、昭和24年に再建するまで、一時父、兄も埼玉県鴻巣の母の実家の近くに疎開して、私たちと一緒に暮らした。私は、その鴻巣から高崎線の列車で通学したが、いつも石炭車の上に乗るのがやっとで、客車内にはほとんど入れなかった。
家の家業はずっと燃料商で、戦後一時日本橋区の中の木炭共同配給所にもなったが、その後は、焼けなかった同業者の方がやはり早く栄えた。
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