掲載日:2023年1月18日
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「みんな和気あいあいと家族同然に」 吉田 ヨリ(よしだ より)
私の寺で引き受けたのは常磐国民学校だけでした。生徒の他に5人の寮母さん、炊事係の地元の女性3人。看護婦1人、手伝いの男性1人がいました。先生は、水越先生、青木先生と女の先生1人の3人でしたが、先生たちは本当によくできた方で、子供たちも素直でいい子ばかりでしたから、何の支障もありませんでした。
当時は戦争中ですし、お寺だからどんなことでもしなければならないだろうと思っていましたから、本当に幸せでした。
疎開児童の机は、檀家の職人が木を切って、長さ1間ほどの座卓を30ほど作り、それで勉強していました。トイレも新しく作りましたが、風呂は、別棟の衆寮だったところに1つあったので、それを使いました。しかし、大勢入るので、しまいには湯がなくなってしまいます。それで、後には1週間に1回くらい近くの湯屋に行くようになりました。
もともと当地は水の乏しい所で、寺の側にある沼の水を使いました。沼の中に橋を作って、洗濯もそこでしていました。
炊事は寺の台所でしました。薪は買いましたが、時には生徒たちが燃料の枝拾いもしました。食べ物は、米の供出が厳しかったので充分ではありませんでしたが、麦飯は食べられました。お祭の時は1軒の家に5人ほど預かってもらって、ご馳走を腹一杯食べさせました。ですから、親がたまに学寮に来ると、その家へ寄ってお礼を言って帰ったようです。地元の小学校の校長、教頭、その次の人3人とも檀家の人でしたので、大変協力して下さって、さつま芋や野菜などを集めたりして下さいました。
第一、村長が良かったし、檀家の総代も面倒見の良い親切な人で、毎晩のように来てくれました。
先生方が良かったせいか、子供たちは和気あいあいとやっていました。わたしの娘3人(昭和12年生まれ、15年生まれ、18年生まれ)とも仲良くやっていました。手伝いの人たちも家族同然でした。
主人は昭和19年6月から召集されて留守でしたし、女1人で子育て中でしたから、私は大したことはできませんでしたが、大勢来てくれて、かえって心強くて助かりました。
水越先生、青木先生とも農家の出でしたから、私の家の稲刈りを手伝って下さったりしました。また、先生方は大変だろうと、炊事係の地元の人が果物を持って来てくれたり、寺の庭の柿をもいで先生のおみやげにしたり、子供たちに食べさせたりしました。ですから、今でも皆さんが来て下さったり、時には東京に呼んでいただいたりして、親交を深めています。ありがたいと思っています。
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