掲載日:2023年1月18日
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「おねしょをする子が多かった」 町田 スミ子(まちだ すみこ)
月島第一国民学校の生徒約100人が当広見寺に疎開して来たのは、昭和19年6月19日でした。
主任の伊東先生(男性)や職員、用務員等合わせると113名くらいで、寺は月島第一国民学校の本部になっていました。それは、秩父市の公民道場にも同校の児童が疎開していたからです。
当時、私共の家族は親子8人、それによそから預かっていた子やじいやを入れると11人でしたが、市からの命令で集団疎開を受け入れることになったため、本堂・書院・庫裏の合わせて11部屋を提供しました。家族はお勝手で暮らすことになりました。本堂は正面の部屋だけ残して、脇の部屋が先生方の部屋でした。
伊東先生が大変いい方でしたので、亡くなった方丈と気が合い、寺の中の人間関係はうまくいっていました。方丈もできた人でしたので、よく子供を集めて話をしたりお経を教えたりしていました。うちの子供たちと月島第一国民学校の生徒も仲良くなりました。
秩父は米のとれない所で、地元の米では年間43日しか食べられない、と言われていました。
疎開して来る時、生徒は米や缶詰など随分たくさん持って来たみたいで、年内くらいは食べ物は充分ありました。しかし、後で市の配給を受けるようになってからは、細いさつま芋2本が食事、といったこともあって本当にかわいそうでした。
寺では農家もしていましたので、芋や大根を分けてあげたこともありました。疎開児童たちも田んぼを借りて、じゃが芋などを作っていました。
中には、親御さんが寺の近くのパン屋や食べ物を売っていた店に密かに遣い物をして、自分の子供に時々腹一杯食べさせてもらっていたようなこともあったようですが、寺としては依怙ひいきするわけにはいきませんでした。
病気で困るようなことはあまりありませんでしたが、精神的なものからおねしょの子供が増えて困りました。
市が寺の外の竹薮の側に便所を作ってくれたのですが、都会の子供ですから恐くて行けない。それで庭にする子もいました。
そういう事情もあっておねしょが多かったのだと思いますが「病気だから」というので、私もマッサージや鍼やお灸によく連れて行きました。
もう1つ困ったと言えば、ノミやシラミが多かったことです。うちの赤ん坊をみんながかわいがって、次々抱っこしてくれるのですが、帰ってくるとシラミだらけでした。
風呂は、大工のできる用務員さんが作っていましたが、たまには先生が引率して町の銭湯へも連れて行っていました。
着る物や文房具は、都会の子ですから沢山持ってきていて、ほとんど不自由しなかったようです。それに、3月10日の空襲でも、幸い1人も家が焼けなかったので、いい物を着ていました。親の中には、子供と一緒に衣類を疎開させる人もありました。
疎開の子供たちが帰ったのは、確か20年11月でしたが、母子4人で来ていた寮母さんが23年まで残っていました。
市から寺へは月380円の家賃が払われていましたので、それを貯めておいて、後で畳替えをしました。
戦時下でしたから否応なしでしたが、今の状況では考えられない時代でした。
戦後、校長先生や伊東先生たちが、私共夫婦をお礼に東京へ呼んで下さったことがあります。また、当時の疎開児童で近くへ来たからと懐かしがって寄っていかれる方がいまだにいらっしゃいますし、折りにふれて思い出がよみがえります。
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