掲載日:2023年1月18日

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「思い起こす戦争体験記」 大山 はる子(おおやま はるこ)

私自身の幼い時の体験から、子供たちを手離して学童疎開に出す決心がつかず、「牛乳が沢山あるよ。こちらへおいで」という親戚からの呼び掛けにつられて縁故疎開に踏み切った。

こだわった理由は、幼い日、関東大震災にあって避難している時、あの火に追われた恐ろしさ、食糧のないひもじさの時、たまたま乳呑児をかかえたお母さんが、背に負った子供は泣き声も出ず、私どもが身を寄せているだるま船(荷物を運搬する船)に尋ねて来た。「何か赤ん坊にやる食べ物はないでしょうか」とのこと。子供の私たちにはどうにもならず、でも何かあげたい、こんな思いで母にその旨を告げた。

母は「さあね、玄米のお粥ではね」と言ったが、赤ちゃんの様子を見て、とっさに「水飴があるけど」と、私たちがおやつに割箸に少しずつ巻きつけてもらっていた、あの水飴を思い出してくれた。

この水飴も、叔父が神田から、あの9月1日の地震後の大火の焼跡(菓子製造工場跡)から流れ出していたものを必死の思いで拾って来てくれたものだった。その水飴でも大きな子供にやるように割箸にはからめられず、「何であげましょうかね」と母。赤ちゃんのお母さんはとっさに自分の着ている浴衣の袖を破って「これにください」と包んで丸めた水飴のかたまりを赤ちゃんの口にふくませた。吸いつく赤ちゃんの顔を必死にながめる親心。私たち子供も、赤ちゃんの口の動きをまねしながら見守った、あの幼い時の思い出。

今、自分が立場の同じ所に立っている。戦争が激しくなれば、大震災の時のような大火災にも出遇う時が来る。母乳が出なくなったあの時のお母さんと同じになる(三女に授乳中)。大きい子供たちにも食糧で苦労する。子供を抱えていては、銃後の務めもできない。「同じ苦労なら親子共々」こんな決心から、あの「牛乳がたくさんあるよ」につられた。

食べ盛りの子供3人と乳呑児を連れて疎開に踏み切った。物資の豊かな農村で疎開生活を始めた自分の無謀さに身の引き締まる思いだ。先ず第一に、人に頼り過ぎることは長続きしない。

先ず食糧を生み出すことだ。親戚の伯母の力添えで、作り手のない農家の畑を借り、近所の農家にいろいろ習って作業を始めた商家で育った私たちには、生まれて初めての経験だった。

その頃、農家は物々交換で蓄えている生地等の物資は沢山あった。幸い私は和洋裁学校出であったので、それを作業着や子供たちの洋服に仕立ててやった。農家の作業を教えて貰う替りと思っていたから、お金は貰わなかった。そのためか、野菜や麦等みんなが持ち寄ってくれた。段々に地域に広まって、思ったより早くその土地に溶け込めた。

この土地の人たちは働き者で、天気の良い日は海で地引き網を引き魚を捕り、雨が降れば畑を耕す。こうした働き者の集まりは豊かであった。その中で、子供たちに引け目を感じさせずに過ごすのは並大抵のことではなかったけれど、1度踏み切ったからには後には引けない。

昼は畑に出て、慣れない作業で見よう見真似の農業、夜は農家の人たちから頼まれた仕立物をと、日を過ごした。「素人」作業でも作り物はよくできた。主人が仕事先から荷車の小さいのを見つけて来てくれて、親戚の牧場から堆肥を運ぷのも、作物を運ぶのも楽になった。馬鈴薯もさつま芋もよくでき、特にスイカが子供たちに1番人気があった。子供たちも朝早くから畑に行くのを楽しみにしていた。

疎開の第1の必需品であった牛乳のお世話になった3女もすくすく育ち、母親の自慢の1つだった。牛乳は1升びんで2本でも3本でも、バターから牛肉まで、すべて日用品に困ることはなかった。

農作業も、さつま芋を獲り入れた後、種を蒔いて冬を越す1年を過ごして農業にも目星がついた昭和19年2月、主人も召集された。兵役の経験のない中年で、さぞ辛かったろうと思った。いよいよ子供を守る責任が自分1人の肩にかかった。身の引き締まる思いの毎日だった。

それからは、いよいよ食糧も逼迫して米の配給もままならず、一般民間人はもとより内地の兵隊も気の毒なくらいだった。

私の疎開先は房総南部で、敵の飛行機が内地攻撃する時に第1に目指す地区だった。警戒警報が出ると汽車が動かず、空腹を抱えた兵隊が駅から裏道をたどり、食糧を探して降りて来ると、その道のたどりつく所に我が家があった。

そのため、初めは毎朝、農家からトマト1貫匁(4kg)ずつ買って玄関に置いた。「先ずトマト1つ」これが兵隊さんとのやりとりの第1歩だった。そのうちに「中身の入った味噌汁が食べたい。自分たちは中身は上官が食べ、味噌の気もなく海の水を呑んでいるようだ」という話。では今度お豆腐の入った美味しい味噌汁を食べさせるから、と約束して別れる。

次に戦友数人を連れて来る。幸い私は村のお豆腐屋さん(元気な男の子を3人育てている)と懇意になっていたので、早速、お豆腐屋さんに走り、親戚の牧場から寄せられた好意の物資を利用して兵隊さんをねぎらった。

本土を守る兵隊さんがこんなに飢えていて戦争に勝てる訳がない。主人もどこかで誰かにお世話になっていることと思い、先ず身近にいる兵隊さんに尽くして本土を守ってもらうことが先決と考えた。

子供たちも、長女は友だちができるまで大変だったようだが、次第に土地にも馴れ、学校の行事の勤労奉仕にも参加してたくましくなった。長男も入学して、近所の子供たちの中に溶け込めるようになり、後には近所の子供たちを預かり、老人たちの信頼の的になっていた。

食糧も補給できるようになったが、ますます空襲が激しくなり、汽車が止まり、その度に訪ねて来る兵隊の数が増えてきて、ある時10人以上の団体でやって来た。「今日は米は持っているから、あの味噌汁をもう1度」とのことで、軍隊の靴下の中につめた食糧を開けてみると、麦ばかりで米は探さなければ見えない程だけれども、ここでけちったら日本国民ではない。どんなに苦心しても気持ちよく食べさせたいと、大切にため込んだ米を出してご飯を作り、豆腐屋に走り味噌汁を作り、肴は土地の人たちの地引き網で捕って作ったアジやマスの干物を焼いて思う存分食べさせ、残りをおにぎりにして持たせて帰す、こんなことを繰り返す毎日であった。
月に何回かある勤労奉仕で、防空壕掘りにかり出される。実家の母に留守を頼み、大きい子供たちの世話を頼み、3女を背負って出かける。防空壕の入口前にムシロを敷き、子供を遊ばせて兵隊さんと一緒に小高い山を掘り下げ、中を迷路のように縦横に道を作る。灯に使う松煙でどの顔も真っ黒。こんなことをして、戦争が終わったら、キツネやタヌキの住家になるのではないかと思ったものだ。民間人の思うことも軍部の上部にいる人も、あまり変わりのない思いがあったようだった。

終戦を迎え、天皇の玉音に涙を流したあの日も今年のように暑い暑い日だった。
「お父さんが帰って来たよ」と子供たちの声に「まさか」と思った。あのソ連国境の敷香(シスカ)にいると便りのあったばかりの主人が、こんなに早く帰るわけがないと、先ず第一に足を見た。話を聞けば、作戦の都合で終戦になる前、内地に渡って貨物列車に詰め込まれて送られ、食糧と一緒に乗せられていたから食べることには不自由しなかったというものの、帰還兵第1号は見るも哀れな作業服姿で、飯盒1つ、食器用のボール(茶碗大)2個、毛布1枚、雑のう1個が所持品だった。
後日、汽車から降りる内地からの帰還兵は背中に一杯の物資、それも毎日同じ時間にせっせと通う毎日、それが幾日も続くのを見た。同じ赤紙の召集兵にもこんなに開きがあると思い知らされた。
終戦の前の日に私宅に来た1団も、「今日は車に載せるほど米は持っているが、作戦で移動するのだから米は置いていかれない」と言われたが、食べて、にぎり飯の弁当を持って出て、その翌日、私宅から少し隔てた道路に、上に載った米俵は跡形もなく、車だけが置き去りになっていたそうで、車を徴発された農家が尋ねて来てわかった。

さて、終戦になって主人も帰って来たので、東京へと思いましたが、未だ終戦の混乱で食糧も不自由な所へ帰っても、と主人と話合い、土地を借り、主人の親元の山から材木を切り出してもらい、私の実家から建具家具をもらい家を建てました。子供たちものびのびと自分の家で過ごせるようになり、ついこのまま子供たちを育て上げるまで腰を据えようかと思う矢先、父の交通事故の報に急きょ帰京することになり、疎開後8年で再び都会の人間となりました。
正直に人生を過ごし、両親を看取って15年、そして主人を見送り2年近くになり、すべての務めを終わり、自分に残された余生を過ごす老女の手記です。読みにくいでしょうが、どうぞご判読ください。
今、長い長い人生の自分史を書いているところです。あまりに沢山書くことがありますので、なかなか「ぼけ」てはいられません。

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