掲載日:2023年1月18日
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「戦時下での生活」 佐藤 治三郎(さとう じさぶろう)
隣組長の群長に選任(当時40歳印刷用器具製造)
名もない庶民生活の群長、隣組長時代の思い出を綴りました。ご参考になれば幸甚です。
昭和15年、湊三丁目2番地の隣組長に選ばれ、各地番毎に隣組長が組内をまとめ、翌16年、第二次世界大戦が起こると同時に隣組長は群長に選任され、警防団員の指導で、バケツリレーで消火訓練とか、人命救助訓練等を行うためタンカが必要となり、軒先の日除けをはずし、左右に青竹を差し込み、俄か作りのタンカを作りました。そのうちに区の助成で三丁目町内数か所に井戸が掘られ、手押しポンプで水を汲み上げて、消火訓練を頻繁に行いました。ときに軍官民連合訓練なども行われ、隣組員も自分の町を守るため、その井戸を利用して真剣な訓練をしました。その井戸がいまも戦時中の名残りとして残っています。
また各群長は交代で火の用心の夜回りかたがた、各家庭の燈火が外部に漏れていれば注意するなど、寒い夜など身体が冷えてこたえました。
強制疎開で家壊し
だんだん戦況が厳しくなるに従い、強制疎開で湊二丁目、湊三丁目の家壊しを他の群長とともに何日もかかって壊し、その古材は軍の馬車に乗って運び、跡の空地は近所の人が残りの古材で炭作りや、食料補給の野菜作りをしました。家壊しの後の骨折りとして、現在の新富町地下鉄出入口脇の国民食堂で、切符と引替で雑炊1杯を貰い、空腹だったのでしょう、みんなが美味かったと喜んでドンブリを空にしていました。この頃は既に食料は配給制度でした。
出征軍人歓送
戦時中、隣組長及び群長兼務のほかに軍人部幹事だった私が、町内から出征軍人があるたびに武運長久を祈るため町内婦人部の「国防婦人会」の旗を先頭に、出征軍人に続き町会員多数とともに高い声で「勝って来るぞと勇ましく~」の軍歌をうたいながら鉄砲洲神社まで行進し、神社の修祓を受けて戦地へと送りました。
町内会毎朝隊伍を組み参拝
なお、戦時中毎朝5時30分、出征者の武運長久祈願のため各隣組員が湊町大通りに参集、点呼の後、隣組番号旗のあとに隣組員が続き、鉄砲洲神社へと向かうことが毎朝の例で、神社で神官とともに全員が武運長久を祈念して散会しました。
学童疎開
空襲が始まらない当時の学童疎開で、別れの壮行会が湊町の大通りの湊町郵便局前であったが、集団疎開児童は197人ほどでした。これら集団疎開児童に対し、町内会より1人1人に文房具を贈ると同時に、町内4軒の理髪店から無料散髪の勤労奉仕がありました。現在ではどこの子供が疎開したのかわかりませんが、その児童もいまは相当の年配に達し、他区へ転居して疎開先の話を聞くことができず残念に思っています。
三宅島島民の竹槍
当時、三宅島で署長をつとめ、京橋区内警察に配属替えの警部が、明石町の広場に京橋区内の隣組組員を集めました。男子は何れもスフの詰襟服に戦闘帽姿のゲートル巻きで鉄兜を肩に、女性はモンペ姿で防空頭巾をこれまた肩にかけ、緊張しながらぞくぞくと集まり、壇上の警部が話す三宅島島民の戦時体制について、全島民は敵が上陸したら竹槍で応戦する覚悟でいるが、東京市民も三宅島島民を見習って貰いたいと、激励を受けたことがありました。
多摩川まで行進
一方、私共群長は日比谷公園で佐官級軍人から5箇条の軍人勅諭を大声で何度も復唱後、その佐官に引率され木銃を肩に多摩川まで行進(渋谷まで市電)苦しい思い出が残っています。
甘味物が食べたい
戦争の末期、町会員はどんどん疎開して、大きな転機を迎え、次第に不自由で悲惨な生活を送る毎日となった。余談になりますが、日常の配給品は減るばかりで、特に甘味物が食べたいが砂糖の配給が僅かで、砂糖が自由販売になったら銀座五丁目の「12か月しるこ店」の甘味物を腹一杯食べたいと夢にみるほどでした。さて、自由販売になってみれば甘味物なんかに手を出さない身勝手です。
古き良き日本となる
昭和20年8月15日、長かった戦争が終わり平和時代に入った。湊町三丁目は1回だけ昼間の空襲で爆弾が投下されたが、被爆された家の方にはお気の毒に堪えない。こうした群長、隣組長などの昔話は今の町会人には歓迎されない。当然と思っています。
ようやく、古き良き時代となりました。中央区が我国最大の商工業区として益々発展することを願うと共に、他区に率先して福祉施設に重点をおかれたことを感謝する次第です。
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