掲載日:2023年1月18日
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「人が空から降ってきた」 大西 清(おおにし きよし)
私は、昭和13年に出征し、翌14年秋に内地に帰還していた。空襲が激しくなった昭和20年には、芝・増上寺の前の女子会館の3階で警備隊の書記をしていた。家は理髪店を営んでいたので、どちらかと言うと職業に甘んじてのんびりしていた方である。
度々空襲には遭ってきたが、空襲、防空壕への避難ということを繰り返すうちに慣れっこになっていた。
私は、防空壕へ避難する時には、家財道具よりも商売道具のバリカンと鋏をいつもバッグに入れるようにしていた。
ところが、昭和20年1月27日の昼の空襲は異常であった。午後1時過ぎに警報が発令されると、いきなり爆弾攻撃が始まったのである。
私が、たまたま近くの漬物屋の前の防空壕のところに立っていたら、我が家から2つ先の路地に爆弾が落とされた。駆けつけてみると、飛ばされた家、前倒しになっている家が目に入った。近くの旅館では、風邪をひいて2階で寝ていた人が吹き飛ばされ、その人の胴体だけが屋根を突き抜けて落ちてきたということだった。この時だけで、付近の人たちが数人亡くなった。八丁堀キネマにも爆弾が落ち、若い娘さんが1人吹き飛ばされて死んだ。私の店でも爆弾でイスが倒れるなどしたが、たいした被害はなかった。
この爆弾攻撃は、銀座や築地、京橋と広い範囲で、日比谷公園にも爆弾が落とされたと聞いている。東京の空襲は主に焼夷弾であったが、私はこの八丁堀で、数少ない爆弾攻撃を間近に受けて、思い出すのもゾッとするような体験をさせられている。爆弾ではないが、近所の人が焼夷弾を顔スレスレに受け、鼻と唇を削り取られたのを見たことがある。
そして、あの3月10日の大空襲では、八重洲通りを挾んだ反対側の八丁堀一丁目と茅場町が油脂焼夷弾を投下されてほとんど焼けてしまったが、私の家は焼けなかった。しかし、ついに、残された我が家を失う時が来た。
それは5月24日未明のこと、付近で焼け残った茅場町二、三丁目、木挽町七、八丁目と共に八丁堀二丁目も焼夷弾攻撃にさらされ、我が家は、隣に落ちた焼夷弾による火災が延焼して焼け落ちた。我が家の火災は、諦めに似た気持ちがあったためか、何となくあっけなかった。火の勢いは、それ以前の空襲による火災にも勝るものがあったし、隣近所が火災に包まれたので、みんなで避難した。
そして、避難先のバラックには、芝中時代の仲良しだった友達が、缶詰や醤油、味噌など食べ物を運んでくれたが、その友達の家もその後の空襲で焼かれ、今度は私が食糧を集めて運ぶことになった。
終戦直後は食糧不足がますますひどくなり雑草なども食べたが、八丁堀にとどまって理髪店を再開した。バラック建ての理髪店、そして電気が弱く停電しがちな時代での営業は大変で、夜はカーバイドライトで仕事をした。
戦時中、六代目尾上菊五郎さんの頭を刈らせて頂いた。六代目の家は女子会館の後ろにあった。今は息子が理髪店をやっているが、その時代は、苦しかった反面、思い出の多い時代であった。
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