掲載日:2023年1月18日

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「木挽町から宮城前に逃げる」 佐野 英子(さの ひでこ)

昭和20年5月24日夜

私の生涯にとって、忘れる事のない夜です。その日は5月も末というのに寒い日でした。お定まりの警戒警報から空襲警報にかわり、父と叔父(3月9日の空襲で本郷春木町で焼け出され、私の家に単身同居していた母の弟)は警防団として外に残り、私と母はいつものように前の日進閣という7階建て(?)のアパ―トの地下室に入りました。

そのうち、いつもと違う大音響がして外が騒がしくなり、不安がつのりはじめましたが、父が来て「焼夷弾が落ちてきたが、皆で消したからもう大丈夫だ」と言ってくれた時には、全身の力が抜けるような気がして、へたへたと座り込んでしまいました。しかし、次の瞬間、叔父が飛んできて「駄目だ、武蔵屋が留守で、3階に落ちた焼夷弾が消せずに焼けてきた。早く逃げないと大変だ。」私たちは無我夢中で地下室から飛び出し、父と叔父は2階からふとん、ラジオなどを運び出し、母は箪笥の下の引き出しを一つだけ抜いて、仏壇からお位牌を入れ、そのまま表に出ました。私は教科書を入れたランドセルと手さげ鞄を持ち、寒かったのでオーバーを着て、ひとまず水谷橋を渡り、京橋のたもと(池田園の前)の空き地に入りました。

大勢の人と一緒でしたので、ひとまず安心と思っていたのですが、私の家が大きな火の手になって火の粉がものすごく、そのうえ銀座一丁目の交差点の所が、焼夷弾がキャンドルのように立ち並んで昼間のように明るく、これ以上ここにいたら命が危ないと父が「宮城(皇居)へ逃げるんだ。家は震災の時も宮城に逃げたんだから」と荷物をリヤカーに積み、4人で歩き出したとたん、また焼夷弾が落下し慌てて京橋のふもとのあずまやに入りました。大事にしていたお人形、お雛様、みんな炎に包まれて、私は涙があふれました。そのうち空襲警報解除になったのですが、ここにいてもまた火の手が迫ってくるので、いよいよ宮城に向かって歩を進めました。鍛冶橋を渡り、宮城の方に曲がると、左側の都庁の建物の赤レンガの中が真っ赤に燃えていて、大きな暖炉のようだと思いながら歩いてきたのを覚えています。宮城も本丸が炎に包まれて、父が「天皇陛下の所も焼けているんだ。俺たちの家も焼けても仕様がないなあ」とつぶやいていました。

父は京橋区滝山町で生まれ、紺屋町、槇町、木挽町と京橋から出たことのない人でした。私は京橋区木挽町で生まれ、14歳で焼け出されるまで住んだあの家が何とも忘れられず、それから色々な所へ移り住みましたが、中央区が好きで、今でも何とか中央区にしがみついています。

宮城前の広場で一夜を明かし、こうやっていても仕方がないからと、叔父は家族のいる富山へ出発し、私たち親子3人はリヤカーを押して家の焼跡に戻ってみると、3階建ての家は1メートルくらいの高さの小山と変わり、まだ煙が出ていました。もう涙も出なくなって、昭和通りを渡りながら見ると、京橋小学校は焼けずに残り、残った家もあるので、口借しさがこみ上げ声を出して母と泣きました。

でも怪我をしないだけ良かったと、母校にたどりつき、玄米のおにぎりをいただいた時のおいしかった事、いまだに忘れません。私たちはそれから、行き場のない近所の人たちと京橋小学校で生活することになりました。

学校には兵隊さんがいて、何かと世話をしてくれましたが、電気はつかず、本当に切ない日々でした。そのうち、皆何とか落ち着き先をみつけて出ていくので私たちも何とかしなければと、父の妹の嫁ぎ先に行くことになりました。津田沼に出発する日に、もう一度焼跡に立って瀬戸物や鉄瓶などを掘り起こして持って行きました。今思えば、何故あの時、バラックでも良いから建ててくれなかったのかと、父を恨みたくなりますが、きっと父も怖かったので、東京から逃げたかったのだと思います。

父も私も中央区が大好きです。父はもう亡くなりましたが、私も命のある限り何とかこの町に住み続けたいと思っていますが、ここもだんだん変わって希望がなくなって行くようです。希望が持てるような行政をお願いして筆を置きます。

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