掲載日:2023年1月18日
ここから本文です。
「もっとも苦しかったのは戦時下より戦後」 関根 カナエ(せきね かなえ)
私は昭和17年2月に主人を亡くし、町内の人のお世話で、三井倉庫へ19年3月に入社し、昭和42年10月31日まで勤務させていただきました。当時、三井、帝国、住友、渋沢、三菱の五大倉庫が軍の命で日本倉庫統制会社となり、民間の商品を預かることが禁じられ、軍のためだけの倉庫として運営するよう統制が敷かれていたのでした。
三井倉庫では、初め雑役婦として社員や労務員のお世話をいたしました。その頃、三井倉庫の偉い人に「朝鮮の人を連れて来るので、寝泊まりする場所をお世話してくれないか」と頼まれ、それを家の近くの藤村さんという工務店に話すと、息子さんが戦地へ行っていて夫婦2人きりなので、2つ返事で了解をしてくださることになりました。部屋は4~5室あったと思います。
彼らの世話は、倉庫統制会社の帝国倉庫の監督さんと寮母さんが1人いて、朝、晩だけはその方が30人の朝鮮の人にご飯を炊いて食べさせておられたようです。昼は三井倉庫で労務を行い、昼食は三井倉庫で供給いたしておりました。
三井倉庫ではとにかく大勢の人を食べさせなくてはなりませんので、焼き芋屋さんにあるような大きな釜でご飯を炊きました。男の人が外米を足で踏んでといで炊きますが、いい加減な水加減の割には見事に美味しく炊けていました。おかずは沢庵2切れと三井倉庫に保管してあった缶詰などの食糧を使いました。
いよいよ危なくなるという昭和19年の後半には、3時になると「今日は居残りは何人!」と言ってくるようになったので、今度は三井倉庫の3升炊きのお釜で5回くらいのご飯の炊き出しをやらせられました。
そのご飯でおにぎりを作るのですが、その作り方にとても驚かされました。まず、大きな湯呑み茶碗に炊きたてのご飯を入れ、大きな飯台(3~4台)の上にご飯を並べていくのです。次に少し冷めてきた飯台の上のご飯を、塩を入れた水の中で洗った手で握っていくのです。こういう握り方は私は初めてでした。
その塩水も初めはきれいなのですが、300個から500個ものおにぎりを握っているうちに、真っ黒に濁ってくるのです。そうして作ったおにぎりも、最初の頃は中に佃煮を入れたり、梅干しを入れたりしていましたが、居残りが何日も続くので材料が不足し出し、結局塩をどっさり入れて、塩気を強くしたものを作らざるを得なくなりました。
その居残りは朝鮮の人だけでなく、日本人の労働者もいました。労働は主に軍の錫を船積みする仕事でしたが、錫は1つ下げるだけでもかなり重く、重労働だったようです。それだけに『お腹一杯食べさせてあげたい』と切に思ったものでした。
朝鮮の人たちは、1室7~8人で住んでいたようです。その家は私の家から見ることができ、彼らはよく寂しそうに外の風景を眺めていました。どの人もおとなしい方で、私が三井倉庫でおにぎりを握っているのを知っているので、会えば「こんにちは」とよく声をかけたものでした。『この人たちも家に帰れば一家の主で、妻も子供も親兄弟もあるんだなあ』と思うと、胸が締めつけられるようになり、可哀想でなりませんでした。
また、日本人の労働者の方々はお弁当を持ってこられない人が多く、疎開先の取手から2時間も3時間もかけて通勤して来る人もいるので、そういう方にはおにぎりをとっておいて分けてあげたものです。
こうして8か月ほど三井倉庫で雑役婦として働いた後、私は三井倉庫の寮母として辞令をもらうことになりました。昭和19年11月のことでした。長男と次男は有馬国民学校の集団疎開で武蔵嵐山の松月楼と松月寺へ行っていましたので、当時6歳の娘と一緒に、トラック1台の荷物とともに新川にある寮へ引っ越しました。その間私の家は空き家でした。
その寮は、家族を疎開させ1人東京に残った倉庫統制会社の比較的地位の高い方々のための寮で、多い時は7~8人が寝泊まりしていたように思います。寮は、もとは高木さんというセメント屋さんの家で、そこの方々は糸魚川の奥さんの実家へ既に疎開していて空き家となっていたため、統制会社が借りたのです。大きなお宅で、有名なお家でした。
食糧は倉庫業のため、比較的不自由はしませんでしたが、それでもよく茅場町の雑炊屋さんにお鍋を持って5人分ほど買いに行って、食事を補ったことがありました。
私は、この寮で昭和20年の3月9日の東京大空襲を迎え、寮は直撃され、罹災することになりました。その日は風呂敷包み1つに、娘の手を引いて三井倉庫に逃げました。罹災前から「直撃をくらったら、とにかく三井倉庫へ逃げておいで。荷物に関わったら命を落とすよ」と三井倉庫の重役さんに口すっぱく言われていたので、主人の写真も着る物も持って逃げることはできませんでした。ただ、風呂敷包みに主人の位牌だけがありました。
三井倉庫へ逃げ込んだ翌日の10日、倉庫が狙われるかもしれないというので、永代橋に船が用意され、人々は船に乗り込むように指示されました。しかし、私はその船には乗らなかったのです。なぜなら、もし、このはしけで娘を途中で落っことしたら、今まで必死に逃げてきて助かったのが無駄になると思ったからでした。娘はとても怖がっており、どこへ行くにも私にしがみついて離れません。しがみついている娘をはしけを渡ってこの船に乗せるのは危険だと感じ、その時、「焼け出されて自分は無一文になったのだから、もうしょうがない、どうにかなるだろう」と開き直れるまでになっていました。
そして我々親子は、元の自分のうちの方へ戻って行きました。ところが焼け落ちただろうと思っていた我が家が残っていたのです。キツネにつままれたような気持ちでした。
家の荷物は、私が三井倉庫へ勤め出してから、箱崎町の町会を通して、立川の近くにある羽村の造り酒屋さんのお宅で、家の大切な品を1人2個ずつ預かってくださることになり、私も主人の洋服や紋付き、自分が嫁に来た時の着物や帯を茶箱一杯、行李一杯に疎開させていました。結局、戦後それらがお米に代わることになり、嫁入り道具や主人との思い出の物はすべて手放してしまうことになるのでした。
もっとも苦しかったのは、誰も同じだったのでしょうが、戦時下より戦後でした。特に私は若くして主人に先立たれていたので、女手1つで3人の子供を育て、食うや食わずの生活の中で、今の家を買い、土地を手に入れました。このような苦しい中で、私たち親子が食べて行けたのは、皆さんの親切と日本人の持ついたわりの心であったと思います。現代のような索漠とした人間関係であったら、生きていくのは到底無理だったと思います。
戦後は娘も疎開しました。3人の子の疎開には、食事代として月に1人当たり17円50銭が要りました。これは学校の後援会から徴収に来られたのですが、私にとっては大変な大金でした。
疎開先には、三井倉庫に勤めている役得で、会社から大豆をバケツ一杯もらって、それを届けてやったこともありました。1番印象に残っているのは、娘の疎開先の町田旅館へ大豆を1斗持っていった時のことで、何年かぶりに先生方が子供たちにお豆腐をこしらえて食べさせることができたと、涙を流して喜んでいただいたことです。
「子供が3人も疎開して1人きりなのだから、あなたもいっそのこと、疎開先の寮母になったら」と陰口をたたかれたこともありましたが、子供がいるから、尚更行ってはいけないと思いました。自分の子と他人の子を平等に扱うことはとても難しいことだからです。
物は本当に大事にしてきました。このような戦争中の苦労を、私は今、神様に感謝しています。そして、皆さんの情けに感謝するのです。いかに人間は周囲の人に支えられているものなのか。私は特に周囲の方に恵まれていたようです。
今はその恩返しのために、区役所からいただける老人手当の5,000円に自分の5,000円を足して、バングラデッシュに寄付しています。そのお金は私自身の物に使ってはいけない気がするのです。
より良いウェブサイトにするためにみなさまのご意見をお聞かせください
同じカテゴリから探す
- 「人形町から宮城前広場へ3月10日朝の明治座」有田芳男(ありたよしお)
- 「防空壕に焼夷弾の直撃」伊神由吉(いがみよしきち)
- 「私と戦争」石川浩司(いしかわこうじ)
- 「泰明小学校で直撃弾」猪股ふじ(いのまたふじ)
- 「爆撃された泰明国民学校を見舞う」鵜澤淳(うざわあつし)
- 「人が空から降ってきた」大西清(おおにしきよし)
- 「深川地区の惨状に思う」勝又康雄(かつまたやすお)
- 「横山町で2度も焼かれる」金井精一(かないせいいち)
- 「木挽町から宮城前に逃げる」佐野英子(さのひでこ)
- 「蛎殻町で焼かれ、広島で原爆被災」須磨末野(すますえの)
- 「目の前で焼夷弾が炸裂」岸浪清七(きしなみせいしち)
- 「隅田川に流れる死体」工藤利一(くどうりいち)
- 「あの夜の空は美しかった」後藤種吉(ごとうたねきち)
- 「築地で消火活動」坂井正保(さかいまさやす)
- 「警備召集で留守の間に焼ける」桜井仁一郎(さくらいにいちろう)
- 「終戦直前の空襲で」佐藤廸夫(さとうみちお)
- 「出産の翌日、嬰児と防空壕へ」高橋すみ子(たかはしすみこ)
- 「空腹に響いたB29の爆音」高橋富男(たかはしとみお)
- 「明治座地下に入れず、助かる」高松信次郎(たかまつしんじろう)
- 「百余軒の貸家を失う」 武山善治郎(たけやまぜんじろう)
- 「学童疎開する友を見送って」手塚久美子(てづかくみこ)
- 「隅田川の網船も燃えた」中里隆介(なかざとりゅうすけ)
- 「鉄筋のビルで焼けずにすんだ」中田多嘉子(なかたたかこ)
- 「火炎が川を渡ってやってきた」中野耕佑(なかのこうすけ)
- 「戦争と私」野村和子(のむらかずこ)
- 「茅場町の理髪店」橋本正一(はしもとしょういち)
- 「1945年-20歳の頃-」 津田 恭子(つだ きょうこ)
- 「戦争くらい悲惨なものはない」 池中 正弘(いけなか まさひろ)
- 「戦争の思い出」 太田 ゑい(おおた えい)
- 「思い起こす戦争体験記」 大山 はる子(おおやま はるこ)
- 「配給切符だけで生活するのは大変たった」桂田一郎(かつらだいちろう)
- 「戦争が終わった時、町が明るくなった」加藤昌吉(かとうしょうきち)
- 「家を守り、家族を守ることが私の使命だった」菊田栄(きくたさかえ)
- 「甘酒横丁の焼跡に畑があった」近藤光男(こんどうみつお)
- 「戦時下での生活」佐藤治三郎(さとうじさぶろう)
- 「戦争被害体験記」佐野久子(さのひさこ)
- 「非常時」柴田和子(しばたかずこ)
- 「商売では食べていけなかった時代」島田立一(しまだりゅういち)
- 「もっとも苦しかったのは戦時下より戦後」関根カナエ(せきねかなえ)
- 「材料と人手不足で鯛焼き屋を休業」竹内保夫(たけうちやすお)
- 「戦中派と言われる私の体験」根本幸子(ねもとゆきこ)
- 「実戦には役立たなかった防火訓練」花村佳吉(はなむらかきち)
- 「苦しかった体験は現在の励み」久長満智子(ひさながまちこ)
- 「うすれかけた記憶から」平石勝(ひらいしかつ)
- 「思い出すままに」丸山嘉一郎(まるやまかいちろう)
- 「戦時下に生きて」渡辺登美(わたなべとみ)
- 「農家に分宿して腹一杯のご飯を」 青木貞治(あおきさだじ)
- 「人間、孤立していてはだめ」 伊藤謙徳(いとうかねのり)
- 「戦争で1番傷つき、消耗したのは、世界中の母親だった」岡村正男(おかむらまさお)
- 「疎開先ではびっくりすることばかり」小泉太郎(こいずみたろう)
- 「スフの国民服と地下足袋で」 Y・S
- 「疎開生活は、その後の人生を変えた」竹村桂子(たけむらけいこ)
- 「当時の子供たちはたくましかった」長谷川れい(はせがわれい)
- 「同じ苦労をともにした仲間たちのつながり」 福田錦二(ふくだきんじ)
- 「疎開先の方々の暖かい心に感謝」堀井隆三郎(ほりいりゅうざぶろう)
- 「雨の日は裸足で通学」本間俊子(ほんまとしこ)
- 「おねしょをする子が多かった」町田スミ子(まちだすみこ)
- 「シラミ取りの時間」丸山毅(まるやまたけし)
- 「みんな和気あいあいと家族同然に」吉田ヨリ(よしだより)
- 「疎開先の牛乳」渡辺正(わたなべただし)
こちらのページも読まれています