掲載日:2023年1月18日

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「配給切符だけで生活するのは大変たった」 桂田 一郎(かつらだ いちろう)

私は、昭和19年から20年8月にかけての約2年間は、召集され東部62部隊に所属し、衛生兵として働いていました。したがって終戦を迎えたのは相模原の軍隊病院でした。3月10日の大空襲の時は、相模原からトラックに乗って本所深川方面に出動しました。トラックは赤十字の旗を立てていました。本所辺りに着くと、道にマネキン人形がゴロゴロ転がっていて、その上をトラックは走っていきました。しかし、マネキン人形と見えたのは、実は人間の焼死体でした。

召集される前の2年間は徴用されて川崎市の池貝鉄工所で舟のエンジンを作る仕事をしていたため、寮生活でした。
そんなわけで、一般の生活についてはそれほど詳しいとは言えませんが、食べ物は不自由でした。私はパンが好きでしたが、パンやバターはなかなか手に入りませんでした。
さつま芋も、1本の半分口に入ればおいしかったと感じる有様でしたし、大根の葉っぱや茎の入った雑炊、カラカラに乾燥したトウモロコシを砕いて粉にしたものにメリケン粉などを混ぜて焼いたりしました。
2食分の食べ物を3食分にして食べる、といった状態でしたが、特殊な物や贅沢な物を求めなければ食べられないと言うほどひどくはなかったように思います。むしろ大変だったのは戦後でしょう。

衣料品については、実家が当時呉服の小売商でしたので、あまり困りませんでした。ただ、何でも構わなければ、ということで、スフはありましたが1番必要な木綿がありませんでした。
配給切符制になったのは昭和15~16年頃ではなかったかと思いますが、何しろ糸を10個買うと切符の半分はなくなるという具合ですから、切符だけで生活するのは大変でした。
今だから話せますが、裏では金糸銀糸入りの豪華な着物をヤミで売りました。お客は金持ちや将校の奥さんといった人たちです。
また、ヤミ市には何でもあるし、普通の商店でも金さえあれば大抵の物は手に入りました。
私の家は商売柄、衣料切符を残しておいて、物々交換に利用しました。お手伝いさんの実家が農家でしたから、裏から手を回して食べ物も物々交換で手に入れることができました。
当時を振り返る時、思い出すのは「買い出し」と「我慢」です。現代は、少々「我慢」がなさすぎて、すぐ人の責任にしたり、勤めを辞めたり、規律が欠けていると思います。
しかし、戦争は所詮殺し合いですから、殺し合いは絶対避けるべきです。

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