掲載日:2023年1月18日

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「明治座地下に入れず、助かる」 高松 信次郎(たかまつ しんじろう)

私は、先々代から三代続いてきた江戸っ子で、戦災の時まで呉服商を営んでおり、町会長など町の世話役をしていたので、地域の多くの人々との付き合いがあった。それだけに、私たちのこの浜町の街が焼夷弾によって火の海に呑まれ、そして、なんの罪もないたくさんの住民の生命が奪われていったことは、とても悔しく、また、悲しい思い出として今も消えることはない。

私は、当時、防火群長といって、空襲の際に地域の人々の安全を守るために働いていた。このため、空襲になっても、私だけでなく私の家族も、我先きに避難することは許されなかった。私は、空襲になると、近所の若い人たちと協力して、まず、女・子供・年寄りを安全なところへ避難させることを終わらせてから、家族を連れて避難するのが常だった。

浜町一帯は、やはり、昭和20年の3月9日夜半からの束京大空襲によって、まさに火の海になり、その火の渦の中に呑まれるようにして焦土と化した。

その日、私はいつものように空襲のサイレンとともに地域の人々を避難させるため家を飛び出した。この地域の避難場所に指定されていた料亭「菊の屋」の地下に近所の人々を誘導して避難させてから、我が家に戻ってみると、最早火災が迫り、建物の半分以上に火が回っていた。妻と妻の妹は、まだ小さかった娘を外へ連れ出し、身の回りの物を懸命に運び出しているところだった。もう、家の両隣にも火が回っており、家の消火や残った家財の持ち出しを諦める決断をして、家族を連れ、少々の荷物を持って、まず、避難場所の料亭「菊の屋」の地下へ行った。
ところが、そこには既に近隣の人々だけでなく、方々から逃げて来た人たちでいっぱいになっていた。仕方なく、そこへの避難を諦めて、「さて、どうしよう?」と思いながら、ふと我が家の方を振り返って見ると、2階建ての我が家が、今まさに燃え落ちるところであった。しかし、それを悲しんでいる間もなく、私たちは迫り来る火災を避けながら、別の避難場所を捜さなければならなかった。

私たちは、明治座を目指して避難したが、道路の両側の建物から噴き出す火の手を避けながらの避難は必死の思いで、明治座にたどり着いたのも不思議なくらいであった。その明治座の地下は、空襲の際の避難場所に指定されていたところである。
だが、明治座の地下も既に中は避難者でいっぱいらしく、ドアをいくら叩いても、中からドアを押さえつけていて開けてもらえず、「ここは、いっぱいだ!他へ行け!」と、怒鳴られるばかりであった。私たちは、一度は絶望しかけたが、ただ「ここで死ぬものか、死なしてなるものか!」という気持ちで、無我夢中、どこをどうやって通って行ったのか全く覚えていないが家族を連れて逃げ回った。
着いたところは浜町公園であった。浜町の明治座から浜町公園まで直線ではほんのわずかな距離だが、火の海に囲まれた中を、火を避け、パニック状態の避難者の群れを避けながら、小さな娘をおんぶした妻を連れての避難行は、たいへん長く苦しいものであったと私自身あとから思うが、たどり着いた浜町公園で我に返った家族にもひとつも怪我がなかった。無事に気付くと、ようやく私たちは「助かった!」という気持らになれ「ホッ」と息をついた。
私たちの家族が入ろうとした避難場所の地下や浜町の明治座をはじめとする多くの地下避難所についての話を後から聞くと、いずれのところでも煙にまかれたりして多くの犠牲者を出したということだった。
生死を分けた避難場所の地下のドア。私たち家族は、どこでも中に入れないために、無我夢中で逃げ、そうして浜町公園にたどり着いて助かったが、もし、どこかの地下避難所で中に入れられていたらと考えると「人間の運命というか、生死の分かれ目は何が左右するか分からないものだ」と思われてならない。
それにしても、あの地獄絵は、今も脳裏に焼き付いた悲しい思い出であり、思い起こす度に、多くの犠牲者の冥福を祈ってやまない。

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